映画の作り手と批評家との距離は国によって大きく異なります。例えばフランスには、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー、ジャック・リヴェットのように批評家から転身した監督を多数輩出してきた「カイエ・デュ・シネマ」の長い歴史があります。ここでは、映画批評とは単に映画の善し悪しを判断するだけのものではなく、作り手と共に、時には作り手と手を携え、あるいは作り手とは別の角度から映画を探求することで、新しいエネルギーに満ちた次世代の作品を生み出そうとする側面が強く表れているように見えます。一方、他のどの国よりも映画産業が経済的に確立された基盤を持ち、ハリウッドという比類なきブランドを擁するアメリカでは、映画批評は作品や作り手から一定の距離を保った客観的な評価の基軸を築くためのジャーナリスティックな文章表現といった側面が強いのではないでしょうか。

 しかし、新聞や映画雑誌が映画批評家の主な活動舞台であった時代に対し、現在ではネットやソーシャルメディアの登場によって様々な変化が生まれています。そうした中、アメリカの俳優ザック・ブラフが監督としての新作『Going in Style』の公開に際して、多数の映画評論家をTwitterでブロックしたことが話題になりました。その中には、過去にブラフとTwitterでやりとりした者もおれば、プライベートでの関わりはおろか、記事やネットで言及したことが一度もないといった者も多く含まれていたそうです。ソーシャルメディアを積極的に使いこなすブラフは、おそらく自作に対する評論家の言葉を少なくともTwitterでは読みたくないという気持ちからこのような行動に出たのだと思われますが、この一件に始まり、映画の作り手と批評家はネットでどのように関わるべきか、アメリカで再び議論となっているようです。IndieWireのデヴィッド・エールリッヒが様々な媒体で活躍する映画評論家にアンケートを行った記事を、以下に抄訳します。(#1)

 それにしても、こうしたアンケートを読んで思うのは、アメリカにせよフランスにせよ、作品とは独立した価値と力学を持つ批評に対する理念と矜持が確固として存在し、またそれを保つための努力や反省も怠っていないということです。それに対して、日本では一体どうでしょう。批評がどのような役割を持っているか、批評の独立した価値は認められているか、ネット時代に批評はどうあるべきか、振り返って日本の事情を考えるためにもとても参考になる記事ではないかと思われます。

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カラム・マーシュ(ナショナル・ポスト)
@CalumMarsh
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 数年前、僕はある映画監督とTwitterで友達になった。僕らは時折プライベートなメッセージを交わしていた。それはゴシップや冗談が中心だったが、彼の作品について語ることもあった。それ以前から彼の映画については何度か肯定的に言及していたし、彼の仕事への敬意を保ち続けていた。

 でもそんな中、彼が作った映画を誰もが酷評する事件があった。大きな映画祭で上映された際に酷くこき下ろされたんだ。そして、彼はTwitterを通じて僕を信頼しており、僕ならこの映画を理解してくれるだろうから是非見て欲しいと伝えてきた。でも、そうはならなかった。自分の作品を愛して欲しいと強く願っている相手に対して、自分がさほど気に入らなかったことを伝えるのがどれほど難しいか説明するまでもないだろう。彼から届くであろう次のDMがどんなに恐ろしかったことか。

監督は結局僕に感想を聞いてこなかった。たぶん僕の沈黙が既に十分な意思表示になったんだろう。彼はgif画像を送ってきただけだった。

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カイル・ターナー(ブルックリン・マガジン他)
@TyleKurner
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 近接した領域にいる誰かと交流しないことは難しい。例えばTwitterは、それが実際の報酬に結びつくかはともかく、自分を売りこむためのツールに過ぎない。そして『ミストレス・アメリカ』でグレタ・ガーウィグが言ったように、自分が何を売っているか知らないで、どうやって人々がそれを買えるだろう?つまり、フィルムメイカーと批評家との関わりには業務取引の側面もある訳だ。自らの仕事に対する誠実さを危機に晒すか否かは、関わりの親密さではなく、お互いの心掛けにかかっていると言えるだろう。

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チャールズ・ブラメスコ(ガーディアン他)
@intothecrevasse
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 批評家とフィルムメイカーはソーシャルメディアで交流すべきだ。僕が尊敬する監督たちが、僕の最高に傑作な文章の数々をふぁぼってRTしてくれる限りにおいてね。(ホドロフスキー、君は何でフォローバックしてくれないんだ?僕はスペイン語でツイートしたっていいんだぜ?)でも真面目に言えば、これは俳優や監督たちと個人的に知り合いになる機会が増えるに従って、僕自身考えてきた問題だ。

 友人関係とオンラインでの親しい関係に明確な区別をすることが重要だと僕は思う。僕の同僚は親しい友人関係にある映画監督の作品をレビューしないポリシーを持っていて、これは実にフェアな態度だと思うけど、一方、Twitterでフォローしているからといってそれがすなわち自らの評論に対する利益相反になるとは思わない。たいていの場合、有名な俳優や監督にたまに@ツイートしたところで、それは映画祭で挨拶や雑談することと大差はない。ただし、ネットで見かける極端な親交の中には、どこかで一線を越えたものがあるのも事実で、有名人にこびへつらうような評論家がその相手の大したことない作品を過剰に絶賛するのを見る度、僕はいぶかしく感じてきたものだ。

 優等生ぶった答えかも知れないけど、結局こういうのはケース・バイ・ケースで考えるしかないと思うんだ。でも、君が過激な回答を僕に期待しているんだったら、こういうのはどうだい?つまり、公開の一年も前から大作のシリーズ映画新作にあご足つきで評論家招いて見学させるような風習は法令で禁止すべきなんだよ!

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ジョーダン・ホフマン(ガーディアン他)
@JHoffman
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 年をとるに従って、私はそれが人生のどんなことであれ、ルールを作るのが完全な時間の無駄であると分かってきた。自分が正しいと思うことをやれば良いんだ。もし批評家が自分の立場を利用してセルフィーやディナーの招待や意味のないRTを得ているのだったとしたら、その仕事はいつか損なわれるだろうし、読者もそれに気付くはずだ。そうならなかったとすれば、そいつは最高に快適な試写室で安穏とし続けるだろうね。

 ごくまれに、私は誰かの映画を誉めたことで相手から感謝されることがある。(それはきまってニューヨークの映画作家だ。ハリウッドの監督たちは私の知性に恐れをなしていて、だからそれは完全に理解できる事態だね。)そうした時、私は必ず同じ返事をすることにしてる。つまり、君の映画は良かった、でも、もし次の作品がつまらなかったら、その時は見てろよ!

 私が映画祭や業界のイベントでの関係を超えた親密な関係となった映画作家が一人だけ存在する。私たちはお互いが大好きで、と言うのはあまりにも興味が似通っているからであって、その共通点はお互いの作品や文章に反映されている。彼の新作が6月に公開予定で、私はそれを見たが傑作だった。私はその作品を賞賛することに躊躇しない。何故なら、彼と友人でなかったとしても私はその作品を好きだったと断言できるからだ。

 しかし、たまに自分のコメントをふぁぼってくれる監督が撮った作品だからと言って、君がその評価を底上げしたり批判の矛先を弱めることがあるのだとすれば、君は間抜け野郎だ。

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デヴィッド・エールリッヒ(IndieWire)
@davidehrlich
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 もちろん、それは全く問題とならない。私たちが仕事を妥協しない限りにおいて。仮に妥協することがあるとすれば、私たちは心の奥底でそれに自ら気付いているものだ。(そして、読者もまたそれを嗅ぎつけ、自ら判断を下すだろう。)

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マニュエラ・ラジク(Little White Lies他)
@ManiLazic
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 みんなソーシャルメディアで交流なんてすべきじゃないわ!この答えだけで良い?

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リチャード・ブロディ(ニューヨーカー他)
@tnyfrontrow
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 友人の批評家デヴィッド・デンビーは、ニコラス・レイとポーリン・ケイルと同席した最悪のランチについて書いている(#2)。「レイに対する批評的神格化を不愉快に感じていたケイルは、彼の作品を一本ずつこき下ろし始めた…この二十年前の映画には幾つか見られるショットがあるわね、でもこっちは過大評価だし、この作品は最低ね、といった具合だった。レイはその間、海老がのせられたプレートをただじっと見つめて一言も口をきかなかった」。私はそんな批評家には絶対になりたくない。そして、批評が率直な評価をその一部とし、一方ソーシャルメディアに仮に何らかの有益性があるものとして、それはきっとシェアすることである訳だから、私がその作品について書くことがあるかも知れない映画作家がそれを読まないことを選択したとしても、私は全く気にしない。ブロックすれば良いさ!

 全てのジャーナリズム同様、つながりを持つことは不可避である。批評家は基本的なアイディアを共有したがるものだし、尊敬する映画作家と気軽に雑談することも好む。そしてジャーナリズムの世界というのは、こうした全てを共存させる場所なんだ。(その作品が気に入らなかった作り手に対して、記事を書いたりインタビューしたいと思う批評家が存在すると思うかい?)書き手や編集者は自らの良心に照らしてラインを引くべきなんだ。私が意識していることが一つある。それはその作品に対するネガティブなコメントの中で作り手をタグ付けないってことだ。(実際のところ、賞賛するコメントの中でも作り手をタグ付けないようにしている。)

 また、Twitterであれ他の場所であれ、私がフィルムメイカーと交流する際には、直接的な批評的言及は避けるようにしている。彼らと理論的ないし歴史的認識が強く異なっていたところで、それは作り手が第一であり、批評家である私はその次に来る存在なのだという認識を保つことほど重要ではないからだ。これは、批評と同様に、ソーシャルメディアの倫理としても重要なガイドラインとなるだろう。(同じ理由から、私はケイルの批評に対する考え方、つまり読者の保護という観点とは異なる立場を持っているが、これは長い話になる。)

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クリストファー・キャンベル(Nonfics他)
@thefilmcynic
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 ソーシャルメディアで交流することには何の問題もない。それが映画作家や批評家にとって適切なものである限りは。それはまた、インタビューなどの仕事にも結びつくだろう。だが、フィルムメイカーと仲良くなろうとおもねるのはよろしくない。誰かが監督や有名人に対して、彼ら彼女らが読みたいであろう内容のツイートをした上で、名前をタグ付けまでして読んでもらおうとするのは見ていて気分が良くない。多くの評論家が、目立とうと必死になるあまり、その客観性を損なうような不誠実な振る舞いに手を染めている。もし君が映画作家と本当に良い友達だったり、無名時代から熱狂的にサポートしていたのだとすれば、その作品に対してネガティブな評価を下したところで、彼らは君への敬意を損なわない筈なんだ。だが、あまりにも親しくなって、誕生日パーティに招いたり、子供たちを一緒に遊ばせたりするまでになると、それは自らの仕事に対する利害相反に結びつくかも知れない。

 ザック・ブラフについて言えば、何故彼が僕をTwitterでブロックしたのか分からない。だって、彼の映画をレビューしたことがなければ話しかけたことも一度もないからだ。しかし、ブロックするのは彼の権利だし、僕は彼のフォロワーでなければ、毎日何をツイートしてるか読みたいとも思わないよ。

#1

Should Film Critics and Filmmakers Tweet at Each Other? — IndieWire Critics Survey

#2
ポーリン・ケイルと知己を得たことで映画評論家の道へと進むことができたデヴィッド・デンビーは、当時アメリカで絶大な影響力と権力を誇り、専制君主的に振る舞ったとも言われるケイルについて、「Paulette」と呼ばれた弟子の一人としての立場から彼女の思い出を率直に明かした記事をニューヨーカーに寄稿し、大きな話題となった。
http://www.newyorker.com/magazine/2003/10/20/my-life-as-a-paulette

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

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