今日はまもなく上映される『アウト・ワン 我に触れるな』(ジャック・リヴェット監督)にも主要キャストのひとりとして出演しているジャン=ピエール・レオの最新主演作『La mort de Louis XIV (ルイ14世の死)』[*1]に関する記事を取り上げます。
アルベルト・セラ監督作である『ルイ14世の死』はその題名の通り、ブルボン王朝の最盛期を築き、“太陽王”とも呼ばれたルイ14世(1638~1715)が狩猟旅行の帰路で足に痛みを感じてから死に至るまでの最期の2週間を描いており、ジャン=ピエール・レオがルイ14世を演じています。同作は昨年のカンヌ国際映画祭でプレミア上映された後、11月にフランスで劇場公開され、そして先週末(3月31日)からは米ニューヨークのリンカーンセンターで上映されています(最初の1週間はジャン=ピエール・レオの特集上映も併催されていたようです[*2])。ここではそのNY公開にあわせてIndiewireに掲載されたエリック・コーン氏による、ジャン=ピエール・レオやセラ監督を始めとする同作の関係者への取材記事[*3]を抜粋してご紹介したいと思います。

このコーン氏による記事は、彼がカンヌ映画祭で初めてジャン=ピエール・レオにインタヴューを申し込んだ時の回想から始まります。コーン氏はカンヌでレオに会うことはできたものの、体調が優れなかった彼はベッドに寝そべったままで応じ(そう、まるで『ルイ14世の死』を再現するかのように)、その会見はわずか1分で終わってしまったのだそうです。この記事は、そのカンヌでの衝撃的なレオとの出会いから、数か月後にニューヨーク映画祭に参加するために訪米した彼と再会するまでが、『ルイ14世の死』の関係者の証言とともに記録されています。
スペイン・カタルーニャ出身の映像作家であるアルベルト・セラは、これまでもドン・キホーテが旅の果てに死を予感する『Honor de cavalleria(騎士の名誉)』(2006)や、ジャコモ・カサノヴァが人生最後の旅でドラキュラ伯爵に出会う『Història de la meva mort(私の死の物語)』(2014)など、死への旅(道程)を描いていました。もともと『ルイ14世の死』はポンピドゥーセンターのインスタレーション作品として企画されたもので、当初の案では15日の間、透明な箱の中に俳優が横たわり続け、それをカメラで常時撮影し続けた映像を一緒に流すというものだったそうです。しかし、予算の都合でそのプロジェクトが休止されたため、映画として製作することになったとのこと。
ジャン=ピエール・レオをセラに紹介したのは、同作のプロデューサー&共同脚本家であるティエリー・ルナスと、『大人は判ってくれない』でドワネル少年が街角で母親が愛人と歩いているところに遭遇する(ケント・ジョーンズ監督の『ヒッチコック/トリュフォー』でも引用されていた)あの決定的なシーンでその愛人を演じていた批評家のジャン・ドゥーシェでした。ルナスはセラにレオを紹介した理由についてこう証言しています。「彼(レオ)は国際的で若く、才能のある監督と仕事がしたいと言っていた。私はプロデューサーとして彼が主役としてカムバックするのを見たかった。それで彼にセラのことを話して、二人を引きあわせたんだ」。
そうしてレオと対面したセラはすぐに彼と意気投合したといいます。「僕は彼のことが一人の人間として大好きなんだ。彼の誠実さを愛している。彼はこれまで商業映画に携わったことがない。ただの一度もだよ! それはすごく重要なことだった。初めて会った時、彼は“私は一度もそれ(商業映画)をやったことがない。知識人と仕事をするのが好きなんだ”と言ったんだ。その時、自分がいま本当に特別な人と一緒にいるんだと感じたよ」。
『ルイ14世の死』の撮影はわずか15日で、リハーサルなしで行われました。撮影初日に王の衣装を着てセットに現われたジャン=ピエール・レオを見た時のことを、撮影監督のジョナサン・リケブールは「ひとりの俳優を見ている気がしなかった。まるで生まれ変わりのようだった。本当に驚いたよ」と回想しています。撮影期間中ずっと衣装のまま過ごしたレオを、セラとリケブールはパナソニック3600という古いデジタルカメラを3台使い、ワイド・ミディアム・クロースアップの3パターンで故意に露出アンダーで撮影し続けたとのこと。特に重要なショットとなったレオ=ルイ14世の死の間際のクロースアップについて、リケブールはこのように説明しています。「僕にとってはレンブラントの自画像にちょっと近い感覚だった。彼の顔に時が刻まれているんだ。我々は彼の顔を通して過ぎ去った時間、そしてそこに残されたもの――彼の一生を見ることができる。ジャン=ピエールはあの時、本当に勇敢なことをやってみせた。何故なら彼は自分自身の死を見ていたのだから。『大人は判ってくれない』に出ていたあの少年のことを考えずにはいられないよ。彼がその眼差しによって与えてくれた表現は本当に深遠なものだった」。

『ルイ14世の死』が上映された昨年のカンヌ国際映画祭では、ジャン=ピエール・レオにパルムドール名誉賞が授与されました。その受賞スピーチ[*4] で、そしてその数か月後に行われたニューヨーク映画祭の会見の席でも、レオはジャン・コクトーのある言葉を引用しています。それは「映画は現在進行形で死を捉えることができる唯一の芸術だ」というものです。「私はそれを『ルイ14世の死』の中に見ることができると信じている」、レオはそう語ります。
コーン氏がニューヨーク映画祭の後に行なったインタヴューにおいて、レオは『ルイ14世の死』における体験をより具体的に語っています。
「ルイ14世という貴重なキャラクターを肉体化することで老年期に入ることができたのは幸福なことだった。(この作品の話をもらって)すぐにこの役が私のキャリアにおいて重要なものになることがわかった。いや、“キャリア”という言葉は好きじゃないな。私の人生、私のフィルモグラフィーにおいて重要な役だった。死の床にあるこの人物に入り込むために私は猛然と戦った。自分の死の瞬間に足を踏み入れることができる俳優がどれだけいるだろうか。それは驚くほど激しい感情で、私は無傷のままではいられなかった。死に関するあらゆる感情を探す決意だったから、自身にも影響が及んだ。精神的にボロボロになった」
実際、レオは『ルイ14世の死』の撮影後、3週間もの間寝たきりだったそうです(コーン氏はこの逸話を聞いて、カンヌで初めて会った時はきっと彼は恢復する途中にあったのだろうと思い至っています)。
「ここ(『ルイ14世の死』)では人々が話したがらないことが描かれている。それは老いと死だ。だが私はこの映画のおかげで、その両方を受け入れることができたよ」

コーン氏はこの取材記事で、『ルイ14世の死』以外にもふたつのことをジャン=ピエール・レオに訊ねています。ひとつはかつてマーティン・スコセッシが『ハスラー2』を制作した時に、結果的にはトム・クルーズが担うことになったポール・ニューマンの相手役を最初はレオにオファーしていたという逸話についてです。
「その時私は田舎に滞在していて、傍には若い女性がいた。電話が鳴って、受話器から英語で話す声が聞こえてきた。私は英語を話せないから、その若い女性に通訳を頼んだ。その電話の主がマーティン・スコセッシだった。彼は私にパリでポール・ニューマンと一緒に映画に出演してほしいと言った。私は自分がほとんど英語が話せないことを正直に言えなくてね、その時は1週間だけ時間が欲しいと答えたんだ。そのオファーを断わらなければならなかったのは本当に残念だったよ。私のことを考えてくれたスコセッシには今でも感謝している。彼は偉大な映画監督であり偉大な映画狂だし、僕らはアメリカ映画から多大な恩恵を受けているわけだからね」
そしてもうひとつの質問は(よく訊けたなと思いますが)フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールの不和をどのように考えていたか。レオは笑ってこう答えたそうです。
「トリュフォーは死に、ジョニー・ゴダールはスイスで今も映画を撮り続けている。私がどう思うかだって? 当然、彼(ゴダール)が勝者だよ。いまだに生き延びているんだからね。こんなことを言えるのは私ぐらいだな」

*1
http://www.imdb.com/title/tt5129510/?ref_=ttrel_rel_tt

*2
https://www.filmlinc.org/series/jean-pierre-leaud/#films
*3
http://www.indiewire.com/2017/03/jean-pierre-leaud-interview-the-death-of-louis-xiv-the-400-blows-1201799294/
*4
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2016/0526_1213.php

黒岩幹子
「boidマガジン」(http://boid-mag.publishers.fm/)や「東京中日スポーツ」モータースポーツ面の編集に携わりつつ、雑誌「nobody」「映画芸術」などに寄稿させてもらってます。


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