今年2月、クレール・シモン監督の最新作『Le Concours(原題)』が本国フランスで公開された。昨年のベネチア国際映画祭にて最優秀ドキュメンタリー賞に選ばれた本作は、超難関とされるエリート校La Fémis(フランス国立映画学校)の入学試験に迫ったドキュメンタリーだ。先月、この作品を巡って米仏間である論争が起きていた。問題になったアメリカ人批評家の発言と共に、それに反論するフランス側の主張を交えて紹介しよう。

 3月1日から12日の間、ニューヨークのリンカーンセンターでは「Rendez-Vous with French Cinema」というフランス映画祭が開催されていた。今年のベルリン国際映画祭のオープニングを飾った『Django(原題)』(エチエンヌ・コマール)を始め、『Frantz(原題)』(フランソワ・オゾン)、『Mal de pierres(原題)』(ニコール・ガルシア)、『ノクトラマ/夜行少年たち』(ベルトラン・ボネロ)、『二人のトマ、旅に出る。』(セバスチャン・ベベデール)などの話題作や、さらに映画祭の関連企画としてアニエス・ヴェルダに迫ったドキュメンタリー『Live Talk with Agnès Varda』の上映など多様性に富んだ充実のラインナップだった。22回目を迎えた今年、なんとも異様な雰囲気が漂っていたという。開催期間中、アメリカの高名な批評家リチャード・ブロディ氏による「フランス映画は死にかけている」といった内容の批評文がニューヨーカー誌に掲載されたからである。ブロディ氏は当誌の中で『Le Concours』に対する批評を通して、フランスにおける映画教育の実情を痛烈に批判したのだ。

 

「今日のフランス映画からイノベーションが感じられないことについて、『Le Concours』は非常に分かりやすく説明している。この悲惨なフランス映画の状況は、おそらく一時的なものだろう。いまにも爆発しそうな勢いのある創造力が、水面下に確実に存在しているからだ。とは言え、ここ30年、フランスから“historic director(歴史的に重要な監督)”を輩出できていないことを言及せずにはいられない。」

 

 リチャード・ブロディ氏と言えば、1999年よりニューヨーカー誌に寄稿を始め、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、サミュエル・フラーに関する記事で知られている。また、ゴダールの評伝「Everything Is Cinema: The Working Life of Jean-Luc Godard」の著者でもあり、ヌーヴェル・ヴァーグを始めフランス映画全般に造詣が深い。また、ブロディ氏自身の選考による毎年恒例ベストムービーには、これまで多くのフランス映画が選ばれてきた。世界的な影響力を持つニューヨーカー誌だけに、これが一個人の好みによるランキングではなく、公平かつジャーナリスティックな正当な選考であるといえる。このようなことから、今回の彼の発言が単なる粗暴なフランス映画批判ではないことが分かる。

 だがやはり、“歴史的に重要な”という観点で物事の位置づけをするのはいかがなものか。ブロディ氏は、80年代以降に現れた重要な映画作家として、トッド・ソロンズ、ソフィア・コッポラ、ノア・バームバック、アレックス・ロス・ペリー、リチャード・リンクレイターの名前を挙げている。事実、フランスからも同時代、独自の作家性を発揮し世界的に評価を受ける映画人たちが続々と現れている。La Fémis出身者に限らず、ジャック・オーディアール、オリヴィエ・アサイヤス、ギャスパー・ノエ、ベルトラン・ボネロ、ブルーノ・デュモン、ミシェル・ゴンドリー、アブデラティフ・ケシシュ… 彼らの映画史に残した功績は言うまでもない。それを、いちアメリカ人批評家に“(彼らは)歴史的に重要人物とは言えない”と位置づけされた事実は、当のフランス人からしたら実に不本意なものであることが容易に想像できる。

 

「80年代、アメリカ文化の氾濫を危惧したフランスは、“exception culturelle文化的例外)”を掲げ、自国の文化保護の観点でフランス映画の製作と普及を促したのだ。その最中に設立されたLa Fémis。結果として、新しく独創的なアーティストを育てる場ではなく、メインストリームを育てる極めて保守的な組織と化してしまった。そこは、何の疑問も持たず、既存のフォーマットに従い、定められたルールをしっかりと守る従順で善良な生徒を育てる施設でしかない。敷かれたレールから逸脱しようと試みる行為すら許されない。そんなところから何も生まれるはずがない。」

 

 かつて存在した芸術を称え、敬い、後世に伝えようとした姿勢が、“文化的例外”という独自の概念を生み、結果として、フランスの映画教育全体の方針が「創造する」ではなく「保存する」「伝承する」という保守的な方向に向かってしまった、とブロディ氏は分析している。

 いわゆる“学校失格”の刻印を押された国立映画学校La Fémis。アカデミックな雰囲気で、ハイレベル且つプロフェッショナルな教育が受けられると評判の、その高すぎる倍率で入学が困難を極めるエリート校だ。人気だけではなく実績も確かなもので、前身のL’IDHEC時代から(1986年に改組)多くの映画人を輩出してきた。アラン・レネ、フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルコ、クレール・ドゥニ、アルノー・デプレシャン、アンドレ・テシネ、クロード・ソーテ、パトリス・ルコント、ノエミ・ルヴォヴスキー、パスカル・フェランなど錚々たる顔ぶれだ。映画大国・フランスを代表する映画学校の在り方を通して、フランス映画教育全般を真っ向から攻撃したのだ。

 

「格式高く堅苦しい完璧な基準を設ければ設けるほど、若い映画人たちの視野が狭まり、革新的で柔軟なアイデアが望めなくなる。本作内で描かれている入学試験がまさにそう。受験者たちは、“オリジナルを生み出す”というよりむしろ“書類を埋めること”、そして“試験官に従うこと”を強いられているようだ。」

 

 彼自身が近年のアメリカ低予算映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』や『ムーンライト』を支援していることから、国をあげた豊富な資金援助の仕組みやLa Fémisなどの公的教育機関の強力なバックアップ等、フランスによるフランス人(国内で製作の作品含め)に対する手厚すぎる映画製作体制への批判とも捉えることができる。よく言えば“チャンスを掴みやすい”、悪く言えば“甘い”環境であるが故、凡作が増え、良作が生まれにくいという解釈のようだ。しかしながら、近年のアラン・ギロディやジュスティーヌ・トリエ、セリーヌ・シアマ、ミヒャエル・ハネケ、アスガル・ファルハーディーらの多様性に富んだ映画人たちの台頭に着目したとき、「 フランス映画には“イノベーション=革新的・実験的な試み”が欠如している」という意見には賛同しかねる。

 

「近年のフランスにおける映画への資金的な支援システムは、理想的に管理されており、フランス料理やファッション文化のように世界屈指の魅力を誇っている。フランス映画というブランド力は、潤沢な芸術的活力を世界に示すシンボルである。」

 

 ブロディ氏は、今回の映画祭の紹介とともにフランス映画への称賛で当批評文を締めている。作家主義を尊重するフランスと、エンターテインメント性を重要視するアメリカ。その根本的な違いが、今回のブロディ氏の見解を巡る論争によって表面化した形となった。

 

参考URL:

http://www.lesinrocks.com/2017/03/15/cinema/actualite-cinema/new-yorker-attaque-le-cinema-francais-dauteur-juge-formate-et-conservateur-11922739/

http://www.newyorker.com/culture/richard-brody/a-documentary-that-explains-the-dearth-of-innovative-young-french-filmmakers

http://www.lefigaro.fr/cinema/2017/03/17/03002-20170317ARTFIG00209-le-cinema-francais-se-meurt-selon-le-new-yorker.php

https://www.filmlinc.org/festivals/rendez-vous-with-french-cinema/

 

田中めぐみ

World News担当。在学中は演劇に没頭、その後フランスへ。TOHOシネマズで働くも、客室乗務員に転身。雲の上でも接客中も、頭の中は映画のこと。現在は字幕翻訳家を目指し勉強中。永遠のミューズはイザベル・アジャー二。


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