前回の大統領選挙の結果と、その結果として現在まで続いている混乱に、米国内で映画に関わる仕事をしている人々、とりわけインディペンデント映画やドキュメンタリーに関わる人々は、ある種の困惑を抱くとともに、何らかの決断を迫られているようだ。これは当然のことかもしれない。選挙戦の結果は、明らかに彼らが信じてきた価値観を裏切るものだったから。アメリカに限らず、世界中で、テレビ向けに作られたものを含む多くのドキュメンタリーが、社会の中で忘れられた人々や物事の声を拾い上げてきた。その努力は現在も続けられているし、もちろんこれからも続いていく。それらは鑑賞した人々に少なからぬ影響を与え、今後も社会に変化を促していくはずだ。一方、作者の意図がどのようなものであるかはさておき、こうした比較的規模の小さい映画が、ある特定の範疇に留まってしまう場合があることを忘れるべきではない。極端にいえば、その映画が扱う問題にもともと興味がある人しか、その作品を鑑賞しないという状況である。このジレンマ自体は、新しいものではないし、ドキュメンタリー映画を上映しようとする人々なら一度は直面したことがあるはずだ。

「一つ質問してもいいだろうか?」 ドキュメンタリーに関連する情報を紹介するインターネットサイト「POV’s Documentary」への記事(※1)で、筆者のトム・ロストン氏は問いかける。読者に対するものというよりは筆者自身への問いかけのようである。

「ドキュメンタリーは、アイデンティティ・ポリティクスを強調するあまり、普通の人々、虐げられたアメリカ白人たちの物語を“死角”に追いやってしまったのだろうか。それが結果として、ドナルド・トランプが基盤とする“オルタナ・ライト”を助け、結果、我々がいまいるこの混乱を作り出したのだろうか?」

この文章から感じられる失望感は切実であると同時に、理解可能な問題提起でもある。自分たちの努力は、何か根本的に間違っていたのではないだろうか? 
 大統領選で民主党候補として闘ったヒラリー・クリントン氏は、選挙戦でLGBTQや女性、黒人、ヒスパニックなどいわゆる“マイノリティ”の権利拡大を声高に訴え、その支持をひとつの基盤としていたとされるが、彼女が選挙戦に敗れたことも(全体の得票数では勝ったとはいえ)この失望感を高めているかもしれない。

「(クリントン氏の主張は)彼女がジェンダー、民族、性的なアイデンティティを基盤とする人々を代弁しているという印象を与えた。これは、進歩的な文化を反映するものであると思うし、素晴らしいと思う。しかし、そうした主張は数百万の白人アメリカ人にとって“自分は阻害されている”との印象を与えた。で、私はこう思う訳だ。ドキュメンタリーも同じ轍を踏んでいるのではないか、と」(ロストン氏)

 ドキュメンタリーに限らず本来映画は、特に「リベラル」とされる人々のためだけに作られているわけではない。しかし、実際にはしばしば、劇場にいるのは、同じような政治的嗜好を持つ人々である。そういうケースが(例えば東京でも)頻繁に起こっているだろうことは想像に難くない。そして徐々に文化は対話の可能性を欠落した袋小路に追い込まれる。問題はそれに気づくかどうかということなのだ。
 同上の記事で、筆者はこうした事態について映画祭の運営者がどのように考えているのか聞き取りを行っている。筆者がインタビューを行った一人、ノースカロライナ州で良質なドキュメンタリーを毎年ひとつのテーマに沿って紹介する映画祭「Full Frame」のディレクターであるDeidre Haj氏は次のように思いを語る。

「私は人々とコミュニティを結びつけるというドキュメンタリーが持つ力を”信じている”けれど、しかしその”信じる”ということは、私が自分がすべき仕事の半分に過ぎない」 

 Haj氏が提起するのは例えば次のような問題だ。この映画祭で軍事産業についての作品が上映され、それが紛争を長引かせる影響について問題提起がなされた場合に、その作品の「声」は同州にある基地内で訓練に従事している若い兵士たちに届くことはない。Haj氏はこうしたアイロニーを今、とりわけ切迫したものとして感じているという。ちなみに、ノースカロライナ州は民主・共和支持者が拮抗する激戦州=スウィング・ステートとされるが、前回の大統領選ではトランプ氏への票が勝った。
 どうやら州内には分断されたコミュニティが存在し、映画祭にはある一定のコミュニティに属する人々しか関心を持っていないという懸念をHaj氏は抱いているようだ。ドキュメンタリーや映画を愛好する人々がいる領域の「外の世界」にいる人々にとって、映画が提示する問題を自分の問題として考えることはしばしば困難である。しかし「我々は同じ事柄を共有できるはずなのです」と彼女は続ける。「私はそうした別のコミュニティに赴き、彼らの主張に耳を傾けたいと思うのです」

 先週「ニューヨーク・タイムズ」には、次のような記事が掲載された。(※2)記事によると、いまドキュメンタリーに関わる人々は、自分たちが「橋渡しに失敗した」「見ないふりをしてきた」人々の側の意見を代弁するような作品を求めはじめているという。「トランプ・ワールドにおける“他者”の関心を呼び寄せるべきだという思いは、ノンフィクション映画が、嗜好を同じくする人々=リベラルにたいしてのみ訴えてきたという事態を問いに付す」。同紙の取材に対して、サンダンス映画祭のドキュメンタリー部門のディレクター、タビタ・ジャクソン氏はつぎのように答えている。

「現在、いかなる文化団体もこう考えざるを得ない。“どうしたらよりよい形にできるか?”と。我々の仕事はコミュニケーションに関わるものであるはずだけど、どうやらこの国では人々が対話することについて、コミュニケーションに欠陥があったようだ」

 一方、インディペンデント・ドキュメンタリー映画を数多く配給する「Impact Partners」社の代表であるダン・コーガン氏はよりラディカルな変化を模索している。同じくニューヨーク・タイムズ紙の取材にたいして——。

「仮にドキュメンタリーがマイノリティについて語るべきものだとすれば、間違いなく白人労働者層もそのひとつでなければならない。だから、もしも“赤い州”(Red State=共和党支持層)出身の才能を持った映画監督が、そうした観点から別の視点で物語を生み出そうとするなら、我々はその人物と喜んで映画を作りたいと思う」

 ここで紹介した記事からは、「リベラル」な嗜好を本来的に持ってきたアメリカの映画人たちが直面している困難をかいま見ることができるかもしれない。少なからぬ映画祭運営者や映画配給の当事者は模索を始めている。
 求められているのは、——またしても——私たちがしばしば陥ってしまう「対話の欠如」を打破するような「何か」なのだろう。その何かは作品そのものであるかもしれないし、映画を上映する側が仕掛ける何らかの手段であるかもしれない。あるいは偶然かも知れない。例え作品がいかに深淵な問いかけをもっていたとしても、それだけでは足りない場合がある。自分たちの閉ざされた世界を外にひらくために、戦略と思索が——とりわけインディペンデント映画においては——必要とされている。もちろん日本においても例外ではないはずだ。

※1 POV’S Documentary Blog「誰がドキュメンタリーを見ているのか、誰が見ていないのか?」http://www.pbs.org/…/who-watches-documentaries-who…/

※2 NY Times 「Left-Leaning Documentaries World Seek Right Wing Perspective」
https://www.nytimes.com/…/left-leaning-documentary…

 

井上二郎 「映画批評MIRAGE」という雑誌をやっていました(休止中)。文化と政治の関わりについて(おもに自宅で)考察しています。趣味は焚き火。

 


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