ケント・ジョーンズ監督によるドキュメンタリー映画『ヒッチコック/トリュフォー』(Hitchcock/Truffaut, 2015)が日本でも各地で公開されるに至っている。話のもとにあるのは、1966年に出版された一冊の本、『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』だ。これは、トリュフォーによるヒッチコックへの50時間にも及ぶインタヴューがまとめられたものであり、そこで惜しみなく明かされた「映画の秘密」は今なお読者を魅了し続けている。

 さて、先にも述べたようにこの映画は、一冊の本をもとに作られたものであるが、決してその本だけにとどまるのではない。これは、出版から早くも半世紀が経過した、現在の物語なのだ。いつの日かの時点で『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』に出会い、現在、かつてのヒッチコックやトリュフォーと同じように、映画を撮る立場にある10名のシネアスト(デビット・フィンチャー、ウェス・アンダーソン、ジェームズ・グレイ、ポール・シュレイダー、オリヴィエ・アサイヤス、ピーター・ボグダノヴィッチ、マーティン・スコセッシ、黒沢清、アルノー・デプレシャン、リチャード・リンクレイター)それぞれの物語と言ってもいいだろう。ここで、共同脚本をつとめたセルジュ・トゥビアナになされたインタヴューから、今作の制作に至るまでの話と、ヒッチコックの「映画術」が様々な監督に影響を与える所以について語られた部分を引用したい。

 

以下、引用は「NEW VAVE FILM. COM」(*1)から。2016年3月、インタヴュアー:Simon Hitchman

 ――共同脚本として関わるに至った経緯は?
 プロデューサーであるオリヴィエ・ミルから話を持ちかけられたのはおそらく2年程前のことだ。当初はアメリカの映画監督ゲイル・レヴィンが撮るはずだった。私はパリで、彼女はニューヨークで企画を進めていたんだが、彼女は突然亡くなってしまったんだ。そこで私はミルに、共同製作としてチャールズ・コーエンを起用するよう言ったんだ。私は彼をよく知っていたからね。そして彼が、ケント・ジョーンズを監督に、という提案をしてくれた。私とケントの付き合いはかなり長い。「カイエ・デュ・シネマ」編集者時代からの仲なんだ。彼は素晴らしいよ。フランス映画にも精通しているし、スコセッシとも親しい、挙げだしたらきりがないな。
 そうして私は脚本を書き始めたわけだが、すでに思い描くことはあった。というのも、あの長い録音テープを発掘したのは私だからね。あれは1992年のことだ。トリュフォーについてのドキュメンタリー映画(『フランソワ・トリュフォー/盗まれた肖像』)を制作しているときで、ミシェル・パスカルと一緒にトリュフォーの製作会社であるレ・フィルム・デュ・キャロッスに行ったんだ。そこで大きな箱を見つけて、開けてみたらたくさんのオープンリール式テープが入っていたんだよ。再生してみるとすぐにヒッチコックの声が聞こえた。これには驚いた。つまりそのテープは、1962年にユニバーサル・スタジオで繰り広げられたヒッチコックとトリュフォーのかの有名なやりとりが録音されたものだったんだ。(……)その時私たちは少しだけその録音を映画の中に取り入れたけれど、それっきりだった。
 そして1999年に再びレ・フィルム・デュ・キャロッスに行って、トリュフォーの妻であったマドレーヌ・モルゲンステルヌと話をした。その時彼女は社の責任者だった。その年はヒッチコックの生誕百周年だったということもあって、私は彼女に、このテープを使って何かしなれけばならない、と言ったんだ。そして私とニコラ・サーダは、その中から25のエピソードを選んで、「France Culture」で紹介したんだよ。(……)

――『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』に影響を受けてきたという監督によるコメントは非常に興味深いものでした。しかしながら、その中の大半の監督は、そのスタイルやジャンルにおいて、 “ヒッチコッキアン“とは思えない映画を撮っています。様々なジャンルで活躍する映画監督に影響を与えるようなヒッチコックの映画的言語とはどのようなものなのでしょうか。

 それはいつでも純粋映画pure cinema(*2)という考え方なんだと思う。知っての通り、ヒッチコックは、あまりにも多くの映画が会話中心となっているがそれは演劇であっても映画ではない、と言ったでしょう。最近の映画を観ていて思うのは、そのほとんどが会話で成り立っているということだ。そこに演出(ミザンセヌ)というものがない。演出(ミザンセヌ)とは、映像と音だけで、観客に何かを示す方法のことだ。言葉で、じゃないんだよ。スコセッシやフィンチャーにとってそれはとても大切なことなんだと思う。彼らは『ヒッチコック/トリュフォー』の中で最も興味深いことを言っていたね。スコセッシが、あの本で映像の力を学んだ、と言っていたのには驚いた。今日において非常に重要なことだよ。トリュフォーや当時の「カイエ・デュ・シネマ」の批評家たちは、1940年代にハリウッドへ渡ってからのヒッチコックが偉大だというわけではなく、1930年代の、あるいはもっと前のヒッチコックもすでに偉大であったことに気がついていた。だから、彼らはイギリス時代のヒッチコック作品もよく好んでいた。ヒッチコックは、映像で物語を語るということをサイレント映画からいかに学んだか、そして、フリッツ・ラングや初期の表現主義映画からいかに影響を受けていたか、ということについて語っている。それはトリュフォーにとっても、非常に大切なことだった。トリュフォーの強い願望というのは、映画の秘密が何たるかを知ることであり、彼にとって、映画の秘密とはサイレント映画の中にあったんだ。

 

 映画『ヒッチコック/トリュフォー』では、トゥビアナのいう「かの有名な録音」、つまり、1962年のインタビュー音声が引用され、そこで話題となっている映画のシーンが挿入される。Rogerebert.comのオディー・ヘンダーソン氏は、そのレヴューにおいて、「ジョーンズは『ヒッチコック/トリュフォー』のいたるところで、非常に興味深いインタヴュー音声を引用している」(*3)と述べたうえで、ヒッチコックの「映画の秘密」についてより深く言及している。

 

  「『下宿人』は様々な方法を試した最初に映画だった」と23歳からサイレント映画を撮り始めた男(ヒッチコック)は言う。ヒッチコックは映画監督になる前、タイアログ・タイトルを書いたり、絵コンテを書いたりしていた。トリュフォーは言う、トーキー以降の監督が決して知りえないことをサイレント期の監督は知っている、と。サウンドの欠落は、映画が視覚メディアであるということをより強固なものにしたのだ。(……)
 このような考え方は、ヒッチコックの最も知られているサスペンスという要素と結びつく。視覚は言語の壁を越える。ヒッチコックは言っている、「インドの観客が驚くところで日本の観客も驚くはずだ」と。(*3)

 

 ヒッチコックの経歴が紹介されるその場面では、いかにして彼がそのスタイルに到達したか、そしてそれが監督以降にどう生かされたのかが確認できる。『鳥』(The Birds, 1963)におけるティッピ・ヘドレンに関するあるシーンについては「何回見ても気づかなかったことがあった」(*3)とヘンダーソンは述べているが、その詳細は是非とも映画の中で堪能されたい。そして、今現在活躍している10人の映画監督が、そのようなヒッチコック作品をどのように観て、ヒッチコックの「映画術」とどのように関わっているのか、『ヒッチコック/トリュフォー』には、映画の根幹に存在する「映像の力」を通して様々な方向に広がる「映画史」が見てとれる。そこにある種の幸福を感じるのは私だけではないだろう。

 

 

(*1) http://www.newwavefilm.com/interviews/serge-toubiana-truffaut.shtml
(*2)純粋映画(仏: cinéma pur)…1920年代にヨーロッパ圏で発生したアヴァンギャルド映画(前衛映画)のひとつ。大雑把に言えば、他ならぬ映画というメディアだからこそ可能となる表現を重視した映画、ということだが、正確な用語解説は以下のサイトを参考にされたい。http://artscape.jp/artword/index.php/アヴァンギャルド映画(前衛映画)
(*3) http://www.rogerebert.com/reviews/hitchcocktruffaut-2015

原田麻衣
WorldNews部門
京都大学大学院 人間・環境学研究科 修士課程。研究対象はフランソワ・トリュフォー。
フットワークの軽さがウリ。時間を見つけては映画館へ、美術館へ、と外に出るタイプのインドア派。


コメントを残す