1月7日のシャルリー・エブド紙襲撃事件及び2014年12月の『ザ・インタビュー』公開を巡る問題を受けて、何人かの映画監督に対して芸術家の自由に関するインタビューが、Indiewire誌に掲載されました。以下が質問内容になります。「テロリズムや脅迫が芸術家に対して行使される現在の傾向に対し、未来のアメリカそして世界での自由な発言に関して懸念されることはありますか。自分の作品が引き起こすかもしれない暴動を懸念して、自分自身の仕事に対して自己検閲なされることはありますか。」
同記事では、字数などの制約なしに行われたインタビューを全文掲載していますが、ここではその幾つかを訳出することで紹介のみに留めておこうと思います。フィルムメーカーたちの意見全体は、是非原文をご参照下さい。
「私は発言の自由に関して何の心配もありません。勇気あるコメディアンがたわごと、スパムやレイプに関してジョークを続ける限り、我々の知的な文化はそのことによって繁栄し続けるのです。(…)私はアウトサイダーです。ですからやりたいことを何でも出来ます。イラク戦争に私たちが行ったとき、メインストリームの作家たちは(ブッシュ政権の)チェイ二―たちがやったことを不自然にも黙っていました。作品を通して抵抗したのはアウトサイダーだったのです。(…)我々は容易にコントロールされてしまうのです。芸術家の役割はいつでも、この抑圧に対し表現を用いて抵抗することなのです。」(Onur Tukel『Summer of Blood』)
「今回のパリでの恐るべき襲撃事件を受けて、イスラエルでの映画と検閲について語ることは、私にとってとても難しいことだと認めねばなりません。宗教的過激派によるテロ行為、と進行しているイスラエルとパレスチナでの戦争の間で、対立の無い場所は無いと思っています。(…)私たちの検閲は自己検閲になりつつあります、それぞれの映画で相手側の苦悩を見せるとき、あるいは軍や政府を批判しようとするとき、その映画は“反イスラエル”あるいは“脅迫”だ、とさえカテゴライズされます。(…)私は自分の映画において“声”を検閲しないことが義務だと思っています。イスラエルの現実を、進行する占領の事実を見えるようにするために。私は真実を探すことが義務だと感じています。イスラエルの良い面だけを見せなければいけないという世間や大きなメディアの圧力によって、もし私たちが自己検閲をしなければならないとしたら、私たちはもはや映画監督ではなくなるでしょう。アモス・オズが私の作品『Censored Voices』の中で語ったように、「今ここで何が真の痛みであるのか私たちが自分自身に、そしてもしかしたら他人にも語ることができるならば、それは国家モラルへの貢献にはならないかもしれないが、真実へのささやかな貢献になる筈なのです。」」(Mor Loushy『Censored Voices』)
「未来において発言の自由が阻害されることを私は明確に恐れます。言論の自由が贅沢品でしかなかったときのナイジェリア、軍事的な時代に私は生まれました。声を上げることで、罰せられたり政府の標的にされるのではないかと怖れる気持ちを私は知っています。(自己検閲の質問に対して)本当のところはそうです。自分の仕事を自分で検閲しています。私はがんこです、リスクを冒すことは出来るかもしれませんが、そのせいで私の作品に関わった人々を危険にさらしてしまうことを怖れます。」(Jeta Amanta『Black November』『Amazing Grace』)
私の名において発言すること、私はどういう人物でどういう出自であるかを語った上で発言することはひとつの倫理的な態度です。そうした点でここにあげた三人の監督は共通しています。そして同時に、いっそう問題が個別的でかつ複雑であることを示しています。このこともまた重要な点であるように私には思えます。
http://www.indiewire.com/…/filmmakers-respond-to-the-threat…
三浦 翔
横浜国立大学3年/映画雑誌NOBODY
https://twitter.com/eggfalcon3
http://www.nobodymag.com/


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