スティーブン・キングが、キューブリックが監督した『シャイニング』を毛嫌いしていることは有名ですが、2013年に公開された、『シャイニング』の熱狂的なファンについてのドキュメンタリー『Room 237』にも苦言を呈しました。しかしながら、『Room 237』はある意味で特殊なドキュメンタリーであり、今回はこの映画に関してのレビューをお届けいたします。

以下、引用。
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偉大な作家でもあるスティーブン・キングはある種馬鹿者でもある。彼が最も馬鹿になる話題の一つは、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』であり、『シャイニング』の、キングが書いた原作への尊重のなさが彼を35年間も蝕み続けている。しかしながら、ロドニー・アッシャーの、『シャイニング』に関するドキュメンタリー『Room 237』が公開されて、彼が馬鹿になる話題はこの映画にまで拡張した。今回は、ローリングストーンとキングののQ&Aを見ながら、「何が真実か」を御覧いただこう。
――あなたは、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』の熱狂的なファンのドキュメンタリーを観ましたか?
うん。だけど耐えられなくて途中でやめちゃった。
――それは何故?
彼らの「学術的なでたらめ」に耐えられなかったんだ。「人々にナイフとフォークを与えたら、彼らは何かを切ってしまった」とボブ・ディランは言ったけど、それがあの映画で行われていることだったんだ。
キングは、キューブリックの以前のアシスタントであるレオン・ヴ
ィタリや、「『Room 237』はただひどいだけじゃない。耐えられな
いんだ。ニューヨーク大学芸術学部の新入生の方がまだ映画らしいものを作れる」と書いたへサー・ドッグレイと同じように、『Room 237』を見当違いに批判する人の一人となってしまった。
『Room 237』は『シャイニング』の過大解釈の危険があることを考慮に入れると、多くの人々は『Room 237』を、もっともらしい理論、例えば『シャイニング』は、月の着陸のフェイク映像製作に加担したというキューブリックの告白であるという仮定などの単なる紹介にすぎない、と過小解釈しているという皮肉が生まれる。
アッシャーは、ABCニュースのベテラン特派員である、ビル・ブレイクモアが、『シャイニング』が密かなるネイティブアメリカンの虐殺の記録であると考えている(本人はそれを隠しているが)ことを明かし、被写体の信頼性を保証している。
キングの発言で最も苛立ちを感じることは、激昂する前に理解しよ
うとしていないことだ。ディランの発言の引用に関してははまさにその通りであり、『Room 237』は実際、見境ない分析の適用であり、それは映画が自己批判を経ていない時に起こることだ(初期のレビューは、『Room 237』が映画の批評家の話であると解釈しており、私は「それが悪い批評家である」という一点に基づき、それに賛成する)。しかし、それを「学術的なでたらめ」と切り捨てることは、『Room 237』についてというより、キング個人の問題だ。『Room 237』が本当は何なのかを議論する際、人々は、まさしく映画の被写体のように、ひどく危険なリスクを背負わねばならないが、そのリスクを背負うことは、繰り返すロールシャッハテストの一種として、最も機能的なやり方なのだ。
『Room 237』の被写体のうち何人かは、大学教育を受けているが、
彼らの理論は学術的なものというよりは、キューブリックが『シャイニング』を製作した時には、不可能ではないにせよ、非常に難しかったであろう、ある特定の側面への熱心な鑑賞と、インターネットに依拠しており、映画の中に出てくる、「ミノタウロスの絵」のようなイメージを観ていく中で、それが彼ら自身の理論を成り立たせるための、なんら意味づけのない、強迫観念的なテキストであることを無視しながら、効率的に映画の流れというものを無視している(ニセモノの月面着陸が、映画の主人公である、自分の才能のなさによって狂った作家と何の関係があるのか?)。これは、『ソプラノ』のファンのやり口と似ている。どっちの場合も、作者は自分の映画を全てコントロールしていると考えられており、どんな些細なディテールも目的があるのだと考えられている。
『Room 237』をパワフルにしているものは、この「無作為から関連性を生み出す知覚の働き」は、狂気を生み出しうることをほのめかし、批評家と観客に、それらは悪魔的であることを分からせた、そのやり方なのである。
文:近藤多聞
引用:http://blogs.indiewire.com/…/why-stephen-king-is-utterly-wr…


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