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 20世紀中頃に『ゴドーを待ちながら』で不条理演劇の扉を開いたサミュエル・ベケットは、生涯でただ一度だけ、無声映画の脚本の執筆に挑んだことがある。意外にもその中で主要な登場人物を演じたのは、チャップリンと並ぶ伝説的な喜劇俳優の一人、バスター・キートンその人だった。20分ほどの小品ながら現在でも一部の人をひきつけるこの作品に、ベケットは『フィルム』という彼らしい、シンプルかつ含みのあるタイトルをつけた。今月この『フィルム』をめぐるドキュメンタリーが公開され、話題になっている。

 公開されたドキュメンタリーのタイトルは『Notfilm』。これはもちろんベケットの『フィルム』への直接的な言及だ。1965年のニューヨークで、ベケットの立ち会いのもと撮影された『フィルム』は、キートン演じるコートを纏った長身の男性が画面の中でカメラに始終背を向けながら移動し、それをカメラがある主観性を持って追跡を続けるという形式を持つ。会話などはいっさい排除されていて、時折、その男が見る対象——写真、壁にかけられた絵、置物、脈拍をはかっているような手首などなど——のクロースアップが挿入される。移動の過程で、別の人物などの登場により、奇妙に錯視的な——言葉にしてみるなら「男を追うカメラそのものが実はその男なのではないか」と思わせるような——演出あるいはカットバックが施される。「見るもの」と「見られるもの」の非対称性を浮き彫りにしていくような、とても不思議な印象を受ける作品である。インターネットでも部分的に鑑賞できる。(※1)

 

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「フィルム」撮影風景  左がベケット、右側がキートン Milestone FIlms

 この奇妙な作品が完成した翌年、キートンはこの世を去ることになった。『フィルム』が発表当時の演劇界にどう受け入れられたかはわからないが、おそらく不評を買っただろうと想像してしまう。あるいは、ある種非常に概念的なこの作品は「演劇」の世界でも「映画」の世界でもなく、現代美術や実験映画といったフィールドで鑑賞されてきたかもしれない。しかし、ベケットが生涯にただ一度だけ取り組んだ「映画」であるということも働き、少なからぬ人々がこの作品を好んでもきたのだ。(実際、『フィルム』の奇妙な魅力にとらわれて、この映画についての論文を書いたり、あるいはパロディ作品を発表し、新たに解釈をこころみようとする人々を見たことがある)。日本でも、2012年に神戸映画資料館でこの作品の上映にあわせ、シンポジウムも開催されている。

 

 さて、『Notfilm』だ。全貌は明らかでないが情報を集約すると本作は、当時のベケットを知る人物への取材、複数の映画史家や映画作家の発言、またベケットはじめ『フィルム』の製作に携わった人物たちが残した「音声」、そして『フィルム』のフッテージ、これらによって構成されるドキュメンタリーである。『Notfilm』というタイトルはベケットの演劇作品『Not I,』(わたしじゃない)への言及でもある、とニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたレビューで、筆者のO. スコット氏は指摘している。『わたしじゃない』は舞台上で役者がもう一人の人物に向かって独白をおこなうが、二人の役者の姿はほぼ見ることができず、話している人物の口元だけが照明に照らされてみえるという設定で、ベケットのモノローグ形式の戯曲で最も良く知られる作品のひとつだ。『Notfilm』はモノローグという形式ではないものの、やはり追憶についてのドキュメンタリーであり、姿こそ登場しないベケットの「声」が挿入されているという意味でやはりベケットの演劇を連想させるのだ。タイトルをめぐるこうした微妙な連鎖関係を、明らかに監督は楽しんでいる。(※2)

 

  『フィルム』にはベケットだけでなく、才能あふれる当時の気鋭が参加していた。例えばボリス・カウフマンだ。カウフマンは『カメラを持った男』で知られるソヴィエトの映画監督/ドキュメンタリー作家のジガ・ヴェルトフを兄に持つカメラマンで、ジャン・ヴィゴなどとも交流を持ち、エリア・カザンの『波止場』など1950年代の金字塔的な作品に参加した。『Notfilm』の中では、カウフマンの「声」も登場するという。その他、当時のベケットを知る人物らが複数クレジットされている。(※3)

 

 監督したロス・リップマンの経歴にも興味をかき立てられる。リップマン氏の本業はアーカイヴィスト。UCLA大学の映画・テレヴィジョンアーカイブ施設で、フィルムやビデオのフッテージを修復・保管する仕事に従事していた。アーカイヴィストとして修復をてがけた作品は、チャップリン、オーソンウェルズなどの古典作品から、ケネス・アンガーの実験的作品、アルトマンやカサヴェテスのフィルム、あるいはバーバラ・ローデン(エリア・カザンの妻)の『ワンダ』など、めもくらむほど多岐にわたるタイトルが並ぶ。修復作品を含む自身の映像作品などをまとめたHPも公開していて、そこでは快活らしい初老の本人の写真も発見できる。リップマン氏はその一方で、映像作家、エッセイストとしても活動し、美学、映画史などに関する小論はこれまで「アートフォーラム」などアカデミックな批評誌に掲載されているほか、監督した映画も世界の映画祭で公開されている。批評家のジョナサン・ローゼンバウムらもこの人物に対して(修復作品、そして映画作品にも!)惜しみない賛辞を送っているのだ。リップマン氏、ドキュメンタリーの対象におとらない、魅力的な人物といえそうだ。『Notfilm』が日本でも何らかのかたちで公開されることを期待したい。

 

 最後に、上記のHPに掲載されている『Notfilm』についてのリップマン氏の短い文章を引用しておく。

 「・・・数年後にノーベル賞を受賞するベケットは、まもなくその作家としての栄誉の頂点に達しようとしていて、一方キートンは衰えを隠せない年齢であり、ベケットの聖典化を見届けること無くこの世を去った。そして彼らが他の複数の才能とともに製作したこの映画は、毀誉褒貶相半ばし、長く議論の対象となってきた。しかし参加者の多様さは、物語の一部分に過ぎない。その物語は、映画の生誕へと遡行し、人間の知覚そのものへの新しい理解へと拡大していくのだ」

 

1、https://www.youtube.com/watch?v=ePFpEHKKZi4&nohtml5=False

2、NY Times 紙

   http://www.nytimes.com/2016/04/01/movies/notfilm-review.html

3、予告編 http://corpusfluxus.org/Pages/FilmsVideos/notfilmV.html

4、リップマンのHP http://www.corpusfluxus.org

 

井上二郎

「映画批評MIRAGE」という雑誌をやっていました(休止中)。文化と政治の関わりについて(おもに自宅で)考察しています。趣味は焚き火。


2 Comments
  1. すごく興味深いです。映像も美しいですね。

  2. >Nukagaさま ありがとうございます。映画館で上映、という風にはなりにくいと思いますが、なんらかのかたちで見れるといいですね。

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