[113]ドキュメンタリーを撮る際の心構え


近年、『アクトオブキリング』のオッペンハイマー監督がヴェネチア映画祭で審査員賞を受賞するなど、ドキュメンタリー映画が好調です。しかし、ドキュメンタリー映画には、どこまで被写体のプライベートに近づくべきなのか、という問題が常につきまといます。この問題について、Indiewireに、ドキュメンタリーを撮る際の心構えを、実例に基づいて示す記事が掲載されました。
以下、引用。
撮るか撮らないか?対象にどれぐらい接近すべきか、また離れるべきか?
こうした疑問は、真実を記録するときにドキュメンタリー作家が自らに問いかけねばならない疑問です。被写体と監督との境界線は、越えられたり、またあらかじめ決められていたり、また監督と観客の間で境界線がどこにあるかの意見が一致しないこともあります。
映画監督のゴードン・クインは彼のドキュメンタリー映画『Hoop Dreams』の20周年記念の際に、ドキュメンタリーを撮る際の倫理についてプレゼンをしました。Indiewireは、クインや他のドキュメンタリー映画監督と彼らが倫理的に曖昧な境界線をどう定めているか、という問題について取材しました。
クインによると「ドキュメンタリーの監督は、彼らの作品に影響を与えうる倫理上の問題や疑いについての感覚を持つ必要がある」とのことです。これはジャーナリズムとはまた違ったもので、単純に、ドキュメンタリーの監督は対象にともすれば数年間接近することになるので、個人的に彼らの生活に深く関わりすぎることになるからです。「ドキュメンタリー作家は倫理に対する責任を持つべきです」クインは続けます。「映画監督は、観客に真実を伝える義務や、作品を発表する際正確を期す必要があります」。
彼は以前撮った映画で、ある被写体の女性に「もうこれ以上映画に関わりたくない」と言われたことがありました。彼はチームのメンバーと、被写体の女性とミーティングを開き、一般公開の前に、彼女に映画を見せることにする、と決めました。
「完成前に映画を観ていただきます。この映画にあなたが必要であること、この映画が社会に良い影響を及ぼすこと、そしてあなたがどれだけ映画の中で重要な位置を占めているかをお話します。それでも、あなたを説得できなければ、あなたを映画に出さないことにします」とクインは彼女を説得しました。
ジェームズ・キーチとトレヴァー・アルバートは有名人に焦点を合わせることで知られていますが、アルツハイマーと闘うミュージシャンを追ったドキュメンタリー映画、『Glen Campbell: I’ll Be Me』を製作するにあたって、いくつかの制限を設けました。
「撮りたくないものなどありませんが、線引きをどこに設定するかが監督の才能であると考えています。私たちは、常にグレンの尊厳を守り、同時に病気の確実な進行から目を背けないようにすることを選択しました」とキーチは語ります。
「そうなると、次に『どこまで被写体に踏み込んでいいのか?』という疑問が生まれてきます。最初、どのような方向性にすればよいか分からなかったときに、私たちにアルツハイマーを患っている被写体についての疑問が生まれました。私たちはアルツハイマーがどのぐらい深刻に、どのぐらい早く進行するのかが判らず、私たちは自分達がそのことを追い始めていることに気がつきました。最終的に、私たちは、彼の家族と子供が何を望んでいるのかをさらなる制限として設ける必要があると判断しました。」
『Mugshot』の監督、デニス・モールは、被写体の多くが既に生存していないという難問に直面しました。
『Mugshot』では、犯罪者の顔写真の文化的な重要性が説かれ、古い顔写真が芸術品として考えられうるかどうかについて触れられています。誰もが想像しうるように、この映画製作の中で倫理的な問題が浮かび上がってきました。
「少年をレイプした犯罪者や、凶悪な殺人犯といった下劣な犯罪者を見ることに耐えられるか?という問題が浮かび上がってきました」とモールは語ります。
しかしながら、映画の中で、顔写真のコレクターを見つけ出し、彼らと話したときに、彼らのほとんどは、そうした犯罪者の顔写真を排して展示を行っていました。「そうした犯罪者の顔写真は彼らの望むものではありませんでした。私たちは、そのコレクションの中に凶悪犯罪者の顔写真もあることを隠す必要がありました」とモールは続けました。
それでは、被写体が自らを守ることも、映画を手助けすることも出来ないとき何が起こるでしょうか?それが、ヘンリー・コーラの、19歳にして亡くなったシネフィルの女性を追ったドキュメンタリー映画、『Farewell to Hollywood』で起きたことです。
コーラは映画祭で被写体のニコルソンに会い、彼女の病死の前の映画製作を手助けすることを約束しました。Indiewireは、以前の批評で、「課題は、誠実さだ。最終的に、断片的な要素が、ニコルソンの意図と監督の間のズレを生み、それが倫理的な問題につながっているのではないか。死者から遠いところにいる者の挑発や、生きている監督の、死者への優越となってしまっていないだろうか?」と述べました。
コーラは確実にそうした疑念に気づいていました。「私たちはセックスをしていません、いいですね?」彼は映画のプレミアで、自発的にそう述べました。
コーラは、映画が出品されたホットスプリング・ドキュメンタリー映画祭には出席しませんでしたが、メールでいくつかの質問に答えました。彼は、その映画を被写体と監督の間の、そして芸術と人生の間の境界線が崩壊するような、被写体と監督の共同の努力、すなわち「生きている映画」と呼ぶことを強調しました。
コーラはニコルソンとの肉体的な接触を否定しましたが、クインは、「彼が釈明しなければならなかったこと自体が、コーラが疑わしい行為に及んだかもしれない可能性を示唆している」と述べました。彼は、『Farewell to Hollywood』を観てはいませんが、映画監督と被写体は時々不道徳な関係になったり、監督が道徳的に宜しくない判断を下したりすることを強調しました。
ドキュメンタリーの監督は自らのルールを持ち、打ち立てられた境界を維持し、その境界を越えないように被写体ともども尽力しなくてはなりません。彼らは、作品が撮られるべきであったかどうか疑問に思ったり、倫理的ではないと考えたりする観客が必ずいることを認めなくてはなりません。
文責:近藤多聞
http://www.indiewire.com/…/the-ethics-of-documentary-filmma…


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