[056]映画を支えるそれぞれのメソッド


現代では映画の情報が人々の目に止まり、関心を惹くきっかけとなる要因は実に多くの手段で溢れている。映画雑誌、映画サイトはもちろん、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・メディア、個人のブログなどでも情報を手に入れることができるようになった。いわば多くの人々が様々なかたちで映画の情報を発信しているわけだが、そんな現代において映画批評の立ち位置はどうなっているのだろうか。
 近年のフランスにおける映画批評の現状を「レ・フィッシュ・デュ・シネマ」(「Les fiches du cinéma」1934年から続いている月2回刊の映画雑誌)*(1) のフランソワ・バルジュ=プリオールは非常に厳しい状態にあると指摘する。かつてラングロワの時代にあった古き良き批評の時代は過ぎ去り、今では文章を寄せる場所や機会なども無くなりつつ、広告目的などから映画に対する異なる視点がすべて同じような視点に統一されてしまい、読者にとって新たな発見がますます失われているという。
 「批評家は映画を愛すが、話すことは好まなくなった。批評は無気力なものとなってしまった:点数を付け、順位と作品リストを作るが、伝達することはなくなった。発信することをやめてしまったのだ。」*(2) こういった傾向が顕著に見られるということをフランソワ・バルジュ=プリオールは明らかにした後に、「私は毎日、無名の人が書いた素晴らしい文章を読む。私は毎日、有名な人が書いた面白みのない文章も読む」*(2) と述べる。それは、映画に対するアプローチが通常の批評とは別に形成されつつあるということを示唆している。
 しかし、その一方で本当に現代の批評に望みはなくなってしまったのか。同誌では現「カイエ・デュ・シネマ」の編集長、ステファヌ・ドゥロームへインタビューを行っており、*(3) そのことについても少し触れておきたい。「カイエ・デュ・シネマ」は2013年の4月号に、無名の若い映画監督たちを支持する特集号を出版した。それは「カイエ」という映画雑誌が映画を作るための手助けとなり、また新しい映画監督の出現の支えとなる意思表明でもあった。
 その背景には、実はその若い映画監督たちの年齢にもあるらしい。「カイエ」で取り上げた監督たちは平均35歳から40歳であり、その年齢に達するまではずっと短編を作り続けるしかなかったようだ。そしてFEMIS(フランスの国立映画学校)の校長、マーク・二コラでさえもオープンキャンパスで19歳の若者候補者たちを前にして「今日において、フランスの若い映画監督が最初の映画を撮れるのは40歳からだ」*(3) と言い放つ。それはステファヌ・ドゥロームにとって、気が狂いそうになることなのである。何故なら、新しい映画が誕生するまで、長いあいだ待たなければならないということがまかり通っている現状を示しているからだ。また、この現状を招いてしまったのは、「今までわたしたちが何もしてこなかった結果」だと述べる。だからこそ、「カイエ・デュ・シネマ」は行動を起こした。彼らなりの批評で現代の映画と若い映画監督たちを支えるために。しかし、批評だけに、これからの映画の未来を支えさせるのは無責任ではないだろうか。たとえ批評でなくとも、わたしたちにだって苦しい映画の現状を支えることは可能なはずである。
 映画が光の粒子の集まりで生きるように、わたしたちも自分なりの方法で映画を象る光の一つとなればいい。記事、日記、寄付金、口伝え・・・どんな方法だっていい。その光は最初、微小で散り散りなものかもしれない。しかしその光が微弱ながらも集約すれば、夜空に浮かぶ星のような光にだって成り得るはずで、いっそ他の呼応する星々を繋いで、新たな星座さえ作ってしまってもいい。そうすれば新たな星座が我々の時代を、これからも示してくれるに違いない。そして時代が過ぎ去っても、来るべき世代の指針として輝き続けるよう、支え続けていれば、いつか次の世代にこう言える日がきっと来る:あの映画たちと同じ時代を生きたのだと。
 世界を魅了した映画監督たちはそれぞれが生きた時代を自分たちなりに掴んでいた。「カイエ」が今でも現代のフランス映画に影響を与えられているのは、映画の批評が時代の批評に繋がると確信しているからだ。そして今では、若い世代をサポートするべき時代だという批評を行っている。
 だからこれからも、かつてそうだったように、皆で映画というムーヴメントを作っていく際には、せめて自分たちが生きている時代を改めて反芻しながら語り合い、親身に支え合いながらも、新しい時代を共に作っていければと思うのである。でなければ、結局のところ映画は一時的な気晴らしに過ぎなくなってしまう。「カイエ」のステファヌ・ドゥロームは誰もが映画の現状に対して「こうなってほしい」と待つばかりで、それが実際に起こるための行動を取らないと痛烈に批判している。*(3) それはフランスだけで起こっていることではないはずだ。映画の現状は、世界の現状に他ならない。その逆もまた然りで、良い映画が見られないのは自分たちの責任でもある。
 レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』ではドニ・ラヴァンが一人でアコーディオンを弾きながら教会の中を彷徨っていると、どこからともなく音楽隊が集まり始め、彼の奏でる演奏に参加していく。その音楽隊の人たちとは、つまりわたしたちでなければならない。
『ホーリー・モーターズ』間奏曲シーン

楠 大史
「レ・フィッシュ・デュ・シネマ」公式ホームページ
http://www.fichesducinema.com/spip/ *(1)
http://www.fichesducinema.com/spip/spip.php?article4627 *(2)
http://www.fichesducinema.com/spip/spip.php?article4504 *(3)


コメントを残す