75-3 アメリカにおいて、所得の差は、スタジオ映画とインディペンデント映画の間の予算の差と比例している。所得の差というのは社会問題として認識されているが、映画の予算の差はほとんど意識されない。ハリウッドでも無視されてきた問題である。
 どんな産業でも、中流階級があるからこそ発展していくものだが、今の映画産業において、中流階級の権利(生計を立てるのに十分な収入をもらう権利)が確立されていない。もはや低予算映画と高予算映画の架け橋となる存在が失われている。もはや監督がスキルを磨く場もない。
 少なくとも現在のところ、中流階級の映画監督が映画だけで生計を立てることはほぼ不可能だ。一方、大きなスタジオのもとで作られる映画は、海外市場に目を向けているため、莫大な予算を投じ、莫大な利益をあげている。

 現在の映画産業におけるこの商業主義の姿勢は、予算の格差だけでなく、別の問題も引き起こしている。ダスティン・ホフマンがインタビューの中でこれをほのめかしている。彼は、「映画業界が悪い方向へ向かっている」と語ったが、それは、映画作りの中心であった芸術性、独創性、物語性といったものを見失いつつある現在の傾向を指摘しているのだ。
 また、映画界において、名高いリーダー的存在であるマーティン・スコセッシは、「私たちは、現代の文化基準に合わせることができない。多くの人が高い興行収入映画を意識していない時代が確かにあった。しかし、1980年代から、映画は娯楽の一種となり、文化的につまらなくなってしまった。」と語る。コストを気にするあまり、独特の物語性が奪われつつある。
 例えば、「『ジュラシック・ワールド』の成功は、映画スタジオが独創的な題材を尊重しなくなりつつある状況を意味しているのではないか。」と指摘する人もいる。1970年代において、人々は続編に対してネガティブな印象を抱いていた。しかし今や続編の製作はステイタスともなっている。続編をもてはやしていては、独創的なものの地位が低められてしまう。
 大手のスタジオのもとで映画を撮影する監督の場合、予算はピンキリである。例えば、コリン・トレボロウは『Safety Not Guaranteed』を750,000ドルで撮影し、『ジュラシック・ワールド』を150,000,000ドルで撮影した。後者は宝くじを当てたも同然だ。

 アメリカの映画産業は、今でもかなり大きな産業であるが、革新の主導ではなくなりつつある。というのも、映画産業における革新というのは独創的な物語であり、間違っても特殊効果やCGではないのだ。物語の独創性を見失っては革新し得ない。

 財政的にも文化的にも成功させるには、商業50%、芸術50%の比率を保つことが重要だ。今の状況は商業の比率がかなり高い。これでは長い目で見ると損害を被るだろう。

 中流階級が消えることで、監督がスキルを磨く場が失われるだけでなく、映画を作るのに膨大な資金、資源、精神が必要になる。商業と芸術のバランスを保ち、中流階級の映画監督が生計を立てられるようにしなければ、産業の革新も発展も望めないのである。

http://www.indiewire.com/article/how-can-middle-class-filmmakers-make-a-living-2015102675-3

原山果歩 World News部門担当。横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程所属。ウディ・アレンとウィキッドとチーズと緑色。マイブームはガーリー映画。


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