マーティン・スコセッシは、ニューヨーク・フィルム・フェスティバルでのスピーチで、映画(ここではフィルムのことだが)を保存することの重要性と、映画をアーカイブすることの根源的な意味について語った。Indiewireなどが報じた。

 スコセッシは自身が若い頃にふたつのマリリン・モンロー主演映画ー「ナイアガラ」と「七年目の浮気」(ともに1955年代)ーを見たときの記憶をたどりながら、観客に対してこれらの問題を問いかける。ともに二〇世紀フォックスが所有するこれら二つのフィルムのうち「ナイアガラ」は非常に良い状態であったのに対して、「七年目の浮気」はフィルムが色褪せた、スコセッシに言わせれば「見れたものではない。早く映画館を出なければならないと思わせるような」ものだったという。存命のハリウッド監督として人気の頂点にあり、さらに超がつくシネフィルであるこの監督が、こうした議論をなぜ今俎上にのせようとしたのか。

 映画配給、鑑賞、上映。この産業体系のなかで最も重要で、しかも根源的なフィルムの「状態」。スコセッシはこのことが「映画鑑賞の体験」を左右するものだと強調している。「もし優れた映画のブルーレイ版を13、14歳の少年らに見せたとして、その作品の素晴らしさはなんら異ならないだろう」。「しかし」とスコセッシは続ける。「それは“映画”体験ではない。それは全く異なるものだ。この違いは、フィルムの種類によって私たちが感じてきた違いと似ているもので、別の種類の体験なのだ」

 これらは果たして古びた議論だろうか。確かに、現代にあってもはや映画の画質や保存状態についての議論はしばしば見落とされがちだ。例えばクラシック映画であれば、まずは見れることが重要で、そこで「画質」についての議論を始めるのは、一部の映画狂だけだ、という風潮がある。そこには文化についての美学的な追求への反抗も含まれているかもしれない。「美しければ、状態がよければいいのか?」という意見もあるだろう。

 いかにフィルムの状態が悪かろうと、それでも人は映画を見る。それ自体は良いことだが、人によって好みや嗜好があるとはいえ、保存状態についての議論は時折、意識されてしかるべきだ。なぜなら、映画の状態とはその映画が「どう受け取られてきたか」という事実を体現するものでもあるからだ。

 問題は、商業/非商業に限ったことではない、ともスコセッシは述べている。「それが商業映画である時、こうしたことが果たして問題なのだろうか?アーティスト、詩人、小説家、画家といった人々に対して、この体験の問題は非常に重要なものだろう。“芸術”として。それが商業的映画作品であれ、そうでないものであれ、それらは「芸術」であると私は考える」 さらに、これはフィルムに限った問題ではなく(スコセッシはフィルムにこだわっているわけだが)やがてはデジタル映画でも保存についての議論が始まるだろう。データとして保存するのか、どういった媒体が最も保存に適しているのか、そしてさらには根源的に「デジタルとは保存し続けることが果たして可能なのか?」。フィルムは100年持つことが証明されているが、デジタルが100年保存されるかどうかということは、実は誰にもわからないとも言われる。

「あなたたちには“責任”がある。」配給、製作、監督、ジャーナリストなど、映画産業関係者が多くを占めるであろう、ニューヨーク・フィルム・フェスティバルの観客に対してスコセッシは断言する。そしてこれらはおそらく単なる“観客”に対しても向けられたものなのだろう。

 このスピーチは1日、エルンスト・ルビッチの『天国は待ってくれる』の上映に先立って行われた。スコセッシ自身もフィルムの保存に従事する財団を運営しており、今年で25周年を迎えた。

参照:1、Indie wire誌http://www.indiewire.com/article/martin-scorsese-on-…

2、WSJ紙http://www.wsj.com/articles/premieres-and-tributes-at… 

井上二郎

「映画批評MIRAGE」という雑誌をやっています(休止中)。文化と政治の関わりについて(おもに自宅で)考察しています。趣味は焚き火。


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