先日、世界中がレインボーカラーに染まった。アメリカ全州での同性婚が合法化されたのだ。レインボーはLGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の象徴であり、尊厳と多様性を表している。また日本においても、渋谷区に次いで世田谷区も同姓カップルを公認する方針を固めるなど、彼らへの理解と関心が徐々に高まってきているように思う。これまで“LGBT=性的マイノリティ”を描いた映画はその都度話題になり、あるものは問題視され、またあるものは賞賛されてきた。主役として、或いはネガティブの象徴として、そのような個性を持ったキャラクターが登場する映画を思い返せばきりがなく、もはや“マイノリティ”という言葉は的確ではないのではないか。

 かつてそこに確かに存在していた“背徳感”が抜け、“美しく魅せる”時代になった今、近日公開予定の《女性同士の恋愛》を描いた2つの映画が注目を浴びている。次の段階への転換期を迎えた“レズビアン映画”が今後目指すべき姿とは。the guardianに掲載された記事を紹介しよう。

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“年上のレズビアンの女性が、ヘテロセクシャル(異性愛者)の若い女性を未知の世界に誘う。“

 このレズビアン女性のいわゆる捕食的行動は、現在までのレズビアン映画において典型的設定として用いられがちである。アンディ・ウォシャウスキー監督の『バウンド』(1996)やパルムドール受賞の『アデル、ブルーは熱い色』(2014)でも同じ手法が用いられており、表面的にはヘテロセクシャルの若い女性が、レズビアンの女性との運命的な出会いによって新たな関係性に導かれていくというもの。この若い女性の心の“変換”、つまり「性愛の対象が同性である」ということを認識するまでの過程、これがレズビアンを描いた映画において効果的に用いられることがほとんどである。

 しかし、レズビアンへの“変換”の物語は簡単には語れない。複雑な要素の上に成り立っており、ジェンダー・アイデンティ(性自認)や社会的葛藤などの問題などが生じてくる。強引に、半ば強制的に変換に至る場合もあれば、まるで味覚を試すかのように性的指向を探る場合もある。今は苦手なアスパラガスも、じっくり味わってみたら意外と好きかもしれない、という具合に。

 

 『太陽がいっぱい』の原作者パトリシア・ハイスミスの長編小説『The Price of Salt』もまた、その典型的設定を取り入れつつ、その正統派な文脈の中に、オーガズムを表すような性的な比喩表現が多く使われているのが特徴的だ。この小説を映画化したのがトッド・ヘインズ監督の『キャロル(原題)』。若い女性を導く側でタイトルロールの年上女性キャロルを演じるのはケイト・ブランシェット、そして彼女に惹かれていくテレーズを演じるのは本作で今年度カンヌ映画祭女優賞を受賞したルーニー・マーラだ。自分をヘテロセクシャルだと認識しつつ、婚約者との間に何かしらのストレスを感じていたデパート勤務のテレーズ。そこにブロンドの気品溢れる裕福そうな離婚調停中の女性キャロルが現れる。

 この作品では、女性の “変換”がより複雑に曖昧に描かれている。1969年にニューヨークで起きた「ストーンウォールの暴動」より18年も前に書かれた原作に登場する二人の女性の関係は、男女間のラブストーリーと同様の形式で描かれている。たとえ同性であろうと、人間同士の恋愛関係として描かれる権利がある。そもそも恋愛の発生に”変換“や”変化“などないようなもので、その描写を同性愛の物語に限って組み込む必要もない。実際、それを組み込むことにより、リアルな彼女たちの姿から遠ざかってしまうという。原作のその綿密なリアルな女性描写と、そこに息を吹き込んだ2人の女優の名演によりカンヌ映画祭ではパルムドール大本命と謳われ、世界的に非常に高い評価を得ているようだ。

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 もう1つの映画はピーター・ソレット監督の新作『フリーヘルド(原題)』だ。肺ガンを患う年上女性ローレルを演じるのは『アリスのままで』で今年度アカデミー賞最優秀主演女優賞に輝いたジュリアン・ムーア。前述のトッド・ヘインズ監督の『エデンより彼方に』(2002)では夫の性の問題に悩まされる主婦を高潔に凛と演じていたのが印象的だ。そのパートナー、ステイシーを演じるのはエレン・ペイジ。刑事であるローレルが同性愛者の平等を求め、その運動が社会的に影響を与えた真実の物語に基づいている。(この映画の元になったドキュメンタリーは2008年アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞した。)2人の女性が自身の性的アイデンティティを完全に熟知していること、また愛し合うレズビアンの恋愛模様だけをテーマとして描いていないことが従来の映画とは一線を画すリアリズムを放っている。

 「家と犬と、愛し愛される女(ひと)がいること」、人生に最も重要なものをローレルに問われたステイシーの台詞だ。そこにはもう、性自認や性指向といったパーソナルな葛藤や悩みはもはや存在しない。もちろん、同性愛者であることをカミングアウトしているエレン・ペイジをキャスティングしたことも、物語により一層リアリティのある説得力を持たせていることも事実だ。

 

 今回挙げた2つの映画から分かるように、レズビアンを描いた映画はますます多様性を増してきた。ただテーマとして物珍しく、同性愛への目覚めをドラマチックに描き、映画的または視覚的に美しく魅せる時代は終わりを迎え、よりリアリティある人物描写と恋愛だけではない奥行きのあるストーリーが求められている。“レズビアン映画”とカテゴライズされ、それが異質と見なされる時期もじきに終わるだろう。

 最後に、あるカトリック系の高校で『フリーヘルド』の撮影を拒否されていたことも報道された。同性愛が理由というわけだ。そして、前述したような映画におけるレズビアン女性に対する“捕食的”といった偏見とも取れる描写、これこそが彼女たちを攻撃し、いまだ存在する同性愛者嫌悪社会の中で生きることの難しさを助長していることも事実である。これはレズビアンに限らず言えることで、個人の性的な特徴を、現在世間に蔓延している型にはまったイメージそのままに認識し、描写することを改めて見つめ直したい。

 

 

参考

http://www.theguardian.com/film/filmblog/2015/jul/24/film-lesbians-gay-women-conversion-younger-straight-woman-cate-blanchett-julianne-moore

http://www.nydailynews.com/entertainment/movies/moore-page-fight-same-sex-couple-rights-freeheld-article-1.2301846

http://www.imdb.com/title/tt2402927/

http://www.imdb.com/title/tt1658801/?ref_=fn_al_tt_1

 

田中めぐみ

World News担当。在学中は演劇に没頭、その後フランスへ。TOHOシネマズで働くも、客室乗務員に転身。雲の上でも接客中も、頭の中は映画のこと。現在は字幕翻訳家を目指し勉強中。永遠のミューズはイザベル・アジャー二。


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