[244]予告編の大誤算


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 映画といえば、評価対象はもちろん本編だ。しかし本編以上に、妙に心に残る印象的な予告編を目にすることがある。あっという間に目の前を過ぎていくその映像が、短編映画を観たような、なんとも心地のよい後味を残す。本来の目的であるはずの“映画の商業的な貢献”につながったかどうかは別として、本編とは全く別物の“ひとつの映像作品”に出会えた予期せぬ感動に浸るのも、上映開始時間に余裕を持って到着する醍醐味である。

 しかし、予告編製作側の独創性が行き過ぎた場合、それは監督の本来の意図とはかけ離れたまったく別の方向に進んでしまうことを危惧している。宣伝効果を上げようと、嘘や過剰な演出で塗り固めるのは当然良くない。フランスのテレラマ誌に掲載されたいくつかの例を挙げて紹介しよう。

 

 あるアメリカ映画の配給会社に予告編に関する批判が殺到した。『ドライブ』(2011、ニコラス・ウィンディング・レフン監督)だ。男臭いカーチェイスが際立つ仕上がりで、まるで『ワイルド・スピード』のような映画であるかのような宣伝に、騙された、との声が上がった。

 予告編の製作は、例外はあるものの、大抵の場合監督は一切関与せず、配給会社が専門業者へ依頼し作られる。予告編製作会社の女社長ソニア・マリオルは、「あくまで映画の“真髄”を尊重する」と前置きした上で、最大の焦点は「観客の心をいかに早く捉えるか」であると述べる。彼女は今まさに、少し離れた2つの椅子、つまり<映画芸術>と<広告商業>の中間に腰掛けた状態であると言えよう。彼女はこう続ける。「映画の中の難解で複雑な描写や不穏な要素、いわゆるマイナス要素は、完全に無視されることがしょっちゅうです。その映画をより明るく華やかなイメージに近づけたい時は、一人の女性がファーストデートの日、陽気に身支度する様子を映すわ。」この後、女性がそのデートで散々な目に逢うことなど誰が想像しえただろう…

 

 マルク・フィトゥシ監督は、予告編製作に関して監督がまるで蚊帳の外である現状に異議を唱える。「本当に今まで痛い目にあってきたよ。監督が誰よりもその映画のことを知ってる。なのに予告は、全く別物を見たような錯覚に陥るよ。それに俺らが見ることを許されるのは、完成版。もう手遅れで、直しようがない。全くひどい話だよ。」長編デビュー作『Copacabana』(2010、日本未公開)で描きたかったのは社会派コメディだったが、予告編では母娘の関係がクローズアップされている。なにより、最新作『間奏曲はパリで』の予告編には、物語のキーパーソンとなる美形若手俳優ピオ・マルマイの存在が完全に欠けていることに監督だけでなく我々も驚かされる。(日本版では彼の姿が追加されている。)「若い男に走って夫を捨てるイザベル・ユペールなんて、見たくないもんね!」と皮肉交じりに述べるフィトゥシ監督であった。

 また、『明るい瞳』(2007)のジェローム・ボネル監督は、エマニュエル・ドゥヴォス主演の『Le Temps de l’aventure』(2013、日本未公開)の予告編に使用された音楽について、やたら甘ったるい湿気臭いメロドラマのような印象が強調されたことを指摘している。このように、製作会社の“誤った”選曲一つで作品のイメージが決定的になり、監督たちの思い描く作品のイメージに反するものになってしまう。誰もマーケティング戦略には抗えないようだ。

 

 一方、これらのことを踏まえた上で、予告編の原点に立ち返り、存在意義を問い直すという意味では非常に分かりやすい例が存在する。実験的とも言える。ブライアン・デ・パルマ監督の『ファム・ファタール』(2002)だ。丸々本編を早回し、断片的に魅せ、2分間に縮めただけのシンプル且つ挑発的な内容で、エンドロールが流れ出すと「分からなかった?では始めから!」というテロップが現れる。余計な説明や過剰な演出がない分、単純明快だが、視覚的なネタバレという意味では賛否両論だろう。

 そして、記憶に残る予告編といえば忘れてはならないのがジャン・リュック=ゴダール監督の『軽蔑』(1963)だ。羅列された映像と単語のコラージュの最後を飾るのは、ブリジット・バルドーにより発せられた《fatal=運命的な、必然の》という言葉。言葉の余韻がタイトルバックに重なり、実に印象的だ。予告なれど美しければ何でもいいのではないかとさえ思えてくる秀逸な作品だ。

 

 ポストプロダクションと称される撮影終了後に行われる作業には、CGなどの映像編集や効果音や音楽などの音響編集、字幕・吹替制作などがあり、一般的な予告編製作はここに分類される。これら作業はそれぞれの専門家がそれぞれの場所で行なう為、監督の本来の意図がダイレクトに伝わりにくいことに加え、映画を全く別物に変えてしまうことが可能である。それが時に監督の想像の域を超えて、思わぬ傑作を生み出すことも稀にあるが。要するに、映画を台無しにする危険性を孕んでいるのだ。映画は監督のモノ。製作側は監督の意図を正確に捉え、理解し、忠実であるべきだ。しかし客が呼べなければ意味がない。芸術性と商業性の危うい相互関係が、未知なる創造力をさらに刺激していると言えるだろう。

 では、“個性”を持ってはいけないのだろうか。そもそも“いい予告編”とは何なのか。宣伝用とは言っても、その道のプロが創り出した渾身の一本の映像作品であることには間違いない。今年5月に開催された第16回ゴールデン・トレーラー・アワードでは『ワイルド・スピード SKY MISSION』が最優秀賞に輝いた。異例の大ヒットとなった本編に引けを取らないその迫力、是非自らの目で確かめてほしい。

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参考資料

http://www.telerama.fr/cinema/massacre-a-la-bande-annonce,126570.php

http://www.commeaucinema.com/interview/les-secrets-de-la-bande-annonce,174370

http://www.goldentrailer.com/

http://www.franceinter.fr/personne-jean-luc-godard

http://www.dailymotion.com/video/x22h69r_bande-annonce-le-mepris_shortfilms

 

 

田中めぐみ World News担当。在学中は演劇に没頭、その後フランスへ。TOHOシネマズで働くも、客室乗務員に転身。雲の上でも接客中も、頭の中は映画のこと。現在は字幕翻訳家を目指し勉強中。永遠のミューズはイザベル・アジャー二。


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