2019年は、ストーンウォールの反乱から50年となる節目の年である。ストーンウォールの反乱とは、1969年6月、ニューヨーク市警がウエスト・ヴィレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」に踏み込み捜査を行ったことに端を発する抵抗運動のことである。しかし、同性愛は、依然として70カ国以上で犯罪とみなされており、うち11カ国では現在でもなお死刑が適用される犯罪とされている。

 ブノワ・マソッコは、1960年代から現代に至るまでのLGBT+の闘争の歴史を描いたドキュメンタリー映画『L’Étincelle : une histoire des luttes LGBT+』を、7月24日に本国フランスにて公開した。マソッコは、フランスだけではなく、アメリカやオランダにおける彼/女らの闘争を追いかけながら、ゲイプライド、ハーヴェイ・ミルクの選挙、フランスにおけるLGBT+の非犯罪化、AIDSの流行、そして初めての同性同士の結婚などを、多くの証言を通じて取り上げている。たとえば、権利活動家であるクリーヴ・ジョーンズ、歴史家であるリリアン・フェダマンやマリー=ジョ・ボネ、フランスのナイトクラブ「パレス」の象徴であるジェニー・ベルエール、Act Upの共同設立者であるディディエ・レストラード(ロバン・カンピヨの監督作品『BPMビート・パー・ミニット』のモデルとなっている)らが登場するという。[1][2]

ストーンウォール・イン

見るべき理由

 フランスのecrannoirは、この映画に関する記事において、この映画を見るべき理由を3つにまとめている。

 それは第一に「強烈な証言」であるからだという。もともとテレビのために計画されたこのドキュメンタリーにおいて、マソッコは、意思決定者や活動家、芸術家たちの言葉をカメラで捉えている。彼/女らはエイズ時代の黙示録=大惨事を通りぬけた、自分たちの表明=肯定のための闘争を生きてきた人々である。彼/女らの言葉はどれもが衝撃的である。私的な告白であるか、政治的なコミットメントであるかにかかわらず、彼/女らの言葉に耳を傾けるのは感情的な試練である。この記事では上述の人々の他にも、フランスにおいて同性愛を非犯罪化した政治家のロベール・バダンテールや、映画批評家のジェラール・ルフォール、脚本家のダスティン・ランス・ブラック、映画監督であるジョン・キャメロン・ミッチェルの名前が紹介されている。[3]

 第二に「必要不可欠な50年間の闘争」であるからだという。この闘争はまだ終わっていないのである。この映画は、ストーンウォールの反乱と、翌年のプライド・パレードから始まる。性的解放、アフリカ系アメリカ人市民の平等、フェミニズムの台頭などのすべてが、LGBTコミュニティの権利を主張し、クローゼットから脱出し、差別的な法律を打ち破るように駆り立てる。このドキュメンタリーは、当時の反同性愛法の恐怖を提示する。ハーヴェイ・ミルクの到来と暗殺、同性愛を非犯罪化するバダンテール法と、反PACSと反結婚の恐怖などである。こうしたすべてが風習の解放とその政治的実現に貢献するのである。エイズは、このような祝祭の終わりに汽笛を鳴らす。ここから別の戦い、平等の闘争が始まるのである。[3]

 第三に「私たちはともに年を重ねる」(ことができる)からだという。この映画の長所の一つは、50年前に公にされた闘争のルーツを引き出すことにある。そしてその結果、ウッドストックのときには10代だったが、現在では美しいシニア世代となった同性愛者の女性/男性たちの姿を提示することである。戦後生まれの世代は、おそらくはじめて公然と同性愛者であり、そしてまだ生きているのである。そしてエイズ後のLGBT世代は、その共通の過去から学ぶことができ、必ずしも時代遅れになることを余儀なくされるわけではないことを、30年後には理解することができる。

『L’Étincelle』は、これらすべての闘争を経験してきた人々と、今日この大きな犠牲を払って獲得された自由を利用する人々とのあいだの中家として働く映画なのである。[3]

ブノワ・マソッコ監督

ブノワ・マソッコ監督について

 1979年、フランス北東部に生まれたマソッコは、両親が彼にカムコーダーを買い与えた6歳のときに、映画制作への愛を発見する。それ以来、彼は映画制作をやめていないという。20歳のとき、彼はラジオジャーナリストに、そしてテレビドキュメンタリーの監督とプロデューサーになることで、自分の視野を広げることを選んだ。マソッコはそれだけではなく、二編の演劇作品を作・演出し、また現在は長編第1作として、現代のパリを舞台にしたラブストーリーを準備しているという。[4]

マソッコ監督インタビュー

 マソッコは、LGBT+に関する情報を配信するフランスのWebサイトKOMITIDにおいて、この映画に関するインタビューに答えている。

「製作者や放送局がしばしば要求するように、年代順をバラバラにすることは不可能でした。なぜなら、LGBTの歴史を概観するときに本当に驚くべきこと、それは、すべてがつながっていることだからです。1960年代の暴動を引き起こした1950年代の抑圧があり、それ自体が1970年代の性解放を生み出しました。これは、1980年代のエイズの流行拡大の役割を果たした自由なのです。エイズは権利の要求を引き起こしました。なぜなら、をのとき私たちは著しい不平等を実感したからです。それが私たちを平等な権利のための近年の闘争に導いたのです。」[5]

「私は、私たちのセクシュアリティとエイズとの連想に少しうんざりしていましたが、なぜそれが密接に結びついているのか、なぜそれが拒絶されるべきではないのかを本当に理解しました。なぜなら、それはLGBTの歴史の根本的な一面だからです。エイズがなければ、私たちはここにはいないでしょう。」[5]

「映画の中にはかなりクレイジーな瞬間があります。エイズに関連するすべてのドラマが語られたあと、証人たちは、権利や平等のための闘争における、流行の否定できないポジティヴな側面に同意するのです。それを理解することが重要なのです。哲学的観点から、私たちがどの権利を持っていなかったかを自問するために、この瞬間を待っていました。第一の政治的行為、それは自分自身であることです。自分が可視のマイノリティであるとき、選択の余地はありません。しかし、自分が不可視のマイノリティであるとき、存在する権利、セックスをする権利、ありのままの自分を受け入れる権利があることを理解しなければなりません。それが、第一の部分です。ありのままの自分を受け入れること、それはしばしば、第二級市民のような外側において生きることです。したがって、第二の部分は、第二級市民としてみなされることを何としても拒否することです。」[5]

 

[1] http://www.allocine.fr/film/fichefilm_gen_cfilm=275454.html

[2]https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:ldvecloQsRgJ:https://next.liberation.fr/cinema/2019/07/23/l-etincelle-une-histoire-des-luttes-lgbt-de-benoit-masocco-1-h-39_1741669+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&client=firefox-b-d

[3] http://ecrannoir.fr/blog/blog/2019/07/24/3-raisons-daller-voir-letincelle-une-histoire-des-luttes-lgbt/

[4] https://filmfreeway.com/THESPARKtheoriginsofpride

[5] https://www.komitid.fr/2019/06/24/benoit-masocco-realisateur-letincelle-histoire-lgbt/

板井 仁 大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。


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