2019年1月23日、ジョナス・メカスが亡くなった。ブルックリンの自宅で家族に看取られ静かに息を引き取ったとのことだ。メカスの体調悪化は昨年後半から一部で伝えられていた。96歳だった(#01)。

 リトアニア出身のジョナス・メカスは、詩人、映画作家、映画批評家、ジャーナリスト、日記作家、キュレーター、オーガナイザーとしてきわめて多彩で豊かな活動を行い、米アヴァンギャルド映画、インディペンデント映画のゴッドファーザーとして広く尊敬を集めた。70年近くに及ぶアーティスト生活の中で、メカスは数多くの美しい作品を残し、無数の友人を世界中に作り、彼ら彼女らの姿をカメラに収め、そしてまた彼の尽力でキャリアを築くことが出来た映画作家や批評家たちの名前は枚挙に暇がない。メカスがいなければ、アメリカのインディペンデント映画は現在のような形にはならなっただろうともしばしば指摘される。メカスが映画史に残した足跡の大きさは、既に議論の余地がない。その叙情的作品、そしてメカス自身の温かい人柄は日本でもまた深く愛された。彼の映画はイメージフォーラムを中心に定期的に上映され、多くの観客を集めた。また2017年には、その日常の姿にスポットを当てたミニ番組がTBSで放送されたこともあった(#02)。

 1922年、メカスはリトアニアで暮らすプロテスタントの農家に生まれた。6人兄弟の5番目だった。ソヴィエトとナチスの間で翻弄され荒廃した祖国を離れ、1949年、弟アドルファスと共に彼は難民としてアメリカに渡った。ブルックリンに落ち着いたメカスは、到着2週間後には友人からお金を借り、ボレックスの16ミリカメラを購入している。後に彼の作家的署名ともなった日記映画の素材となる映像をこの頃から撮影し始めた。アモス・ヴォーゲルの「シネマ16」などでアヴァンギャルド映画を発見したメカスは、自ら上映会を組織し、アドルファスと共に映画雑誌「Film Culture」を1954年創刊する。アヴァンギャルド映画を中心に扱うこの雑誌には、ピーター・ボグダノヴィッチやアンドリュー・サリス、グレゴリー・マーカプロス、ルドルフ・アルンハイムらが集った。

 1958年、アメリカを代表するオルト・ウィークリーとして知られた「ヴィレッジ・ヴォイス」でメカスは映画批評の連載を開始する。この経緯については、既に別記事で詳述したので、そちらを参照していただきたい(#03「メカスとサリス、ヴィレッジ・ヴォイス」)。メカスはこの連載の中で実験映画、インディペンデント映画の熱狂的擁護者として知られていくことになる。62年にはシャーリー・クラークやスタン・ブラッケージらと共にアヴァンギャルド映画の配給を手がけるThe Film-Makers’ Cooperativeを設立。800人以上のフィルムメイカーによる5000本以上の作品の権利を保有する大組織となった。さらに、64年にはアヴァンギャルド映画の収集と上映を行うAnthology Film Archives(アンソロジー・フィルム・アーカイヴス)を創立(#04)。日本では主に映画作家として名高いメカスだが、彼の名が世界的に知られ尊敬を集めることになった背景には、こうしたオーガナイザーとしての仕事がより大きな役割を果たしているかも知れない。同じ頃、『Guns of the Trees(樹々の大砲)』や『The Brig(営倉)』などで自ら映画作家となったメカスは、ウォーホルやジャック・スミス、スタン・ブラッケージ、ケネス・アンガーらと共にニュー・アメリカン・シネマの中心人物となった。作家として名声を確立したのは、69年の『ウォールデン』からで、『リトアニアへの旅の追憶』『ロストロストロスト/何もかも失われて』『時を数えて、砂漠に立つ』といった代表作は、日本でもしばしば上映されている。

Jonas Mekas in Lithuania, 1971; photographs from A Dance with Fred Astaire

 1964年、ジャック・スミス『燃え上がる生物』とジャン・ジュネ『愛の唄』を上映したジョナス・メカスは、その性的表現によるわいせつ罪で警察に逮捕される。一般紙でも大きく報道されたこの騒動を逆手に取り、メカスは検閲の是非と表現の自由を巡る一大キャンペーンをメディアで展開した。これは、アヴァンギャルド映画の存在とメカスの活躍を広く世間に認知させる事件となったが、一方で自作が政治的に利用されたとしてスミスはメカスを激しく糾弾した。『燃え上がる生物』のオリジナルプリントをメカスが保有し彼に返却しなかった経緯を含め、スミスは生涯メカスを激しく憎悪した。メカスはこの件について自らの立場を明かすことがなかったが、その確執にも関わらず、スミスの作品を上映し擁護し続けた。彼の立場に立てば、上映のたびに自作を改変することで知られたスミスからその作品を一定の形で保護する目的があったとも推測できる。また、スミスはその性格的問題からメカスに限らず多くの敵を作るタイプだった。いずれにせよ、日本での一般的イメージとは異なり、メカスが必ずしも万人にとって天使のような存在であった訳ではないことも公平に見る必要があるだろう。極端な愛国主義者としての政治的立場は時に他人との軋轢を生み出し、またそのカリスマ性やきまぐれな性向、そしてきわめて有能な起業家としての資質には一方で違和感を表明する者も存在した。

 近年では映画界の最前線から少し身を引き、フィルムや詩、ビデオ、スマホ映像、ブログなどで悠々自適な創作活動を続けていたかに見えるメカスだが、亡くなる前年の2018年、再び大きなスキャンダルが彼を襲った。それは、リトアニア時代の若き日々に関わるものだった。この時代のメカスについては、日本でも翻訳出版された自伝『どこにもないところからの手紙』などで彼自身が何度も語っている(#05)。だが、メカスがメカスとして知られる断片的で詩的な語り口もあり、様々なディテールが明瞭ではなく、数多くの矛盾や記憶違いが含まれていることは以前から知られていた。しかし、そこにはそれ以上に重大な歴史的隠蔽が存在するのではないかと指摘されたのだ。リトアニアに残された膨大な資料を綿密に調査し、メカス自身に何度も取材した後、大きなスキャンダルを生んだ記事を「The New York Review of Books」に発表したのは、歴史研究者マイケル・キャスパーだ(#06)。

 1939年、ヒトラーとスターリンが独ソ不可侵条約を締結し東ヨーロッパの分割統治を決めた時、メカスはまだ16歳だった。リトアニアはソヴィエトに支配され、1940年6月にはソヴィエト軍が侵攻してきた。初めて購入したカメラで、メカスはソヴィエト軍の兵士たちを撮影した。しかし、そのフィルムは兵士たちによって抜き取られ、ブーツで踏みにじられたとのことだ。またこの時期、ソヴィエトは多くのリトアニア国民をシベリアに抑留し、高校時代のメカスのクラスメイトたちもまた多数が行方不明になった。キャスパーによると、メカスの愛国主義はこの思春期の悲劇に端を発しているとのことだ。

 1941年6月、ナチスドイツはソヴィエトへの侵攻を開始し、ソヴィエトはリトアニアから撤退した。代わりに彼の国へとやって来たのは、ナチスだった。メカスの回想によると、彼は対独レジスタンスに参加した後、逮捕され強制収容所に送られたが、その過酷な境遇を生き延び、弟アドルファスと共にアメリカに亡命したとされている。だが、キャスパーの調査によると、メカスはこの時期、実際には二つの雑誌で執筆者兼編集者として旺盛に活動していた。メカス自身によっても時に断片的に語られてきた事実だが、そこで欠落していた重要な問題とは、それらが共にリトアニアの過激な極右政治団体によって発行されたプロパガンダ雑誌だったことだ。その主要な記事は、愛国主義、反共主義、反ユダヤ主義の色彩を色濃く感じさせるものだった。

 ここで、メカスが実際に特定の政治的活動へコミットしたという記録はない。彼が当時執筆していた記事も、全て詩や文芸評論に属する非政治的なものだったという。だが、彼が参加した雑誌はソヴィエト支配からの救済者としてナチスドイツを賛美し、反共主義と反ユダヤ主義を大いに扇動していた。これが重要な問題であるのは、当時リトアニアはホロコーストに積極的に荷担した国として知られ、そこで暮らしていたユダヤ人の95%までが数年のうちに虐殺されたからだ。しかも、その殆どがドイツ人ではなくプロパガンダを真に受けたリトアニア人自身によるものだった。メカスが通っていた高校の周辺でも、たった一夜のうちに2400人のユダヤ人が虐殺される事件が起きた。そのうち900人が子供だった。メカスがこの大量虐殺に直接関与、ないしその周辺で事件を見聞していた証拠はない。だが、この時期についての彼自身の証言には著しく矛盾が多く、疑惑を生む一つの原因ともなっている。そして、メカスがリトアニアから亡命したのはナチスが母国から撤退した後のことであり、彼が脱出したのは強制収容所ではなく難民キャンプだった。

 キャスパーの記事が大きな論争を生む中、これが直接の原因であるかは不明ながら、メカスは酷く体調を崩したと報じられた。彼は結局その病から立ち直ることがなかった。メカス自身は記事に対して強く反発し、U.S. Holocaust Museumのインタビューに答えた6時間近くに及ぶ証言映像を残している(#07)。だが、果たしてメカスとは一体どういう人間だったのか。仮にキャスパーの記事が全て事実であったとしても、メカスが映画史に残した足跡の偉大さ、そして『リトアニアへの旅の追憶』などに代表される彼の作品のリリシズムが否定されることは決してないだろう。だが同時に、彼の映画の美しさ、そのロマンティシズムを賛美する余り、事実や歴史が不当に歪められ、隠蔽されることがあってもまたならない筈だ。私たちは、今こそメカスというこの映画史の巨人に対して、その全体像に触れるスタートラインに立っているのかも知れない。

01

https://www.theguardian.com/film/2019/jan/23/jonas-mekas-film-appreciation-avant-garde-cinema

02

https://www.tbs.co.jp/FACES-TBS/archive/11.html

03

04

http://anthologyfilmarchives.org/

05

https://www.amazon.co.jp/dp/4879956546

06

07

https://collections.ushmm.org/search/catalog/irn619022

参照:
https://www.theparisreview.org/blog/2016/06/03/a-raving-maniac-of-the-cinema/
https://www.nytimes.com/2019/01/23/obituaries/jonas-mekas-dead.html
https://www.nytimes.com/2019/01/27/movies/jonas-mekas-appreciation.html
https://www.artforum.com/news/jonas-mekas-1922-2019-78408
http://www.jjmurphyfilm.com/blog/2009/05/29/jack-smith-and-the-destruction-of-atlantis/
https://www.theguardian.com/film/2019/jan/24/jonas-mekas-last-interview-godfather-underground-film-avant-garde-john-yoko-dali-warhol
http://j-hoberman.com/2018/06/why-i-cannot-review-jonas-mekass-conversations-with-film-makers/
https://www.newyorker.com/news/postscript/my-debt-to-jonas-mekas

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

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