今回の記事は少し古い話題になりますが、12月21日に全米で公開されたロバート・ゼメキス監督の最新作『Welcome to Marwen』[*1]について取り上げます。なぜ公開からひと月も経って記事にしているかというと、この映画、同時期に公開されたクリント・イーストウッド監督の『運び屋』とあわせて個人的に2019年に観たいハリウッド映画の筆頭にあげていた作品だったのですが、いまだ日本公開のニュースが届かず、さらにゼメキス監督にまつわるニュースとして入ってくるのはむしろ次回作の『The Witches(魔女がいっぱい)』のことだったり、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの続編は「ありえない」と発言したといったことばかりで、『Welcome to Marwen』についての話題がほとんど聞こえてきませんでした。これまた一体どうしたことかと海外の映画サイトを調べてみると、興行的に大失敗していて(初週に1190館で公開され興行収入は2400万ドル。製作費が3900万ドルで、マーケティングや配給にかかったコストを考慮すると4500~5000万ドルの損失が予想されるとのこと)[*2] 、映画評や星取レビューでも酷評や低い点数が目立ち、「今年(2018年)最低の映画」なんて見出しがついた記事まで散見される始末[*3]。そもそもゼメキスの近作で興行的に大成功をおさめた作品などないということは承知しつつも、予想以上の低評価ぶりに日本公開も危ぶまれるのではないかと危惧をいだき、なぜそんなに不評なのかという点も含めて調査してみた次第です。

まず『Welcome to Marwen』がどんな作品なのかというと、マーク・ホーガンキャンプという実在のアーティストの人生と作品をモデルにした映画です。イラストレーターだったホーガンキャンプ氏は2000年にニューヨークの酒場で5人の男たちに暴行を受け、生死の縁を彷徨います。その暴行の理由はクロスドレッサーだった氏がハイヒールを履いているのが気に食わなかったというだけの、いわれのないものでした。一命は取り留めたものの、外傷だけでなく、脳にも大きな損傷を負ったホーガンキャンプ氏はそれまでの自分の人生の記憶――かつて海軍に従事していたことや結婚経験があること、はたまた家族や友人、近所の人に関すること――の大部分を失ってしまっていました。歩行訓練などの長期間にわたるリハビリに耐えて退院した彼が一種の芸術療法として始めたのは、自宅の裏庭に第二次世界大戦下のベルギーにあるという設定の架空の村“Marwencol”を1/6スケールの模型で創作するということでした。その模型の村にG.I.ジョーやバービー人形を配して撮影された写真はのちに『Marwencol』というタイトルの写真集として出版され、また、2010年にはジェフ・マルブバーグ監督によって同名のドキュメンタリー映画も作られました。
ロバート・ゼメキスがホーガンキャンプ氏のことを知ったのは、そのドキュメンタリー映画を観てからだったといいます。いわく、「2010年にチャンネルサーフィンをしていてこのドキュメンタリーを見つけました。すでに開始から10分が経過していましたが、すぐに心を奪われ、最後まで見続けました。そしてすぐに長編のフィクション映画にする可能性、ドキュメンタリーが可能にしたことを超える物語を語る可能性を見出しました。それで翌朝、ユニバーサルピクチャーズのチェアマンであるドナ・ラングレーに電話をかけ、すぐに映画化の権利を取得してほしいと依頼したんです。いつの時代も変わらず多くのアーティストは自分の抱える問題を解決するために、自身の心を癒すために芸術作品を作ってきました。それが最大のテーマでした」[*4]。
ゼメキスが『Marwencol』をフィクション映画として作る可能性として見出したのは、ホーガンキャンプ氏が作った架空の町の模型と人形をモーションキャプチャーを使って映像化し、“Marwencol”の世界とホーガンキャンプ氏が生きる実人生を交錯させた物語を語るということでした。実際、『Welcome to Marwen』に登場する人形の多くは、スティーヴ・カレルが演じる主人公マーク・ホーガンキャンプをはじめ、彼が関わる女性たち(病院の理学療法士や、暴行を受けた酒場の店員、近所に引越してきた女性、あるいはお気に入りのポルノビデオの女優など)とそっくりの顔を持ち、またマークに暴行を加えた男のひとりがナチスのかぎ十字の入れ墨をしているのも“Marwencol”に侵入してくるナチス将校に投影されていると考えられます。『ポーラ・エクスプレス』『ベオウルフ』『クリスマス・キャロル』と全編でモーションキャプチャーが使われた作品のみならず、『フライト』『ザ・ウォーク』『マリアンヌ』といった近年の実写映画においても様々な特殊効果を用いてきたゼメキスにとって、本作は技術的な面においても継続的かつ新しい挑戦だったと言えるでしょう。一方で彼は以下のように語っています。
「私が好きな格言にフランソワ・トリュフォーが言ったこんな言葉があります。“本当に良い映画とは真実とスペクタクルが完璧に融合したものである”。私はそれこそが映画でなされるべきことだと思っています。人間の真実を提示すること、しかも他のどのメディアでもなし得ない方法で。映画はあらゆるレベルにおいてスペクタクルとして存在します。目を見張る俳優のクロースアップでさえも特殊効果の一つなのです」[*4]。
「マーク・ホーガンキャンプの人生において、彼はこの世界(Marwencol)を写真に撮ることによって想像しています。だからこそ私はその世界に命を吹き込むことで面白い映画ができると考えたのです。観客にマークの想像の中で何が起こっているのかを見せたかった。それが最初のインスピレーションでした。あらゆる映画製作は天秤に硬貨をのせるようなものです。そこに厳格な規則はありません。映画を作ることは音楽を作ることに似ています。映画にはリズムがあります。私が長年かけて発見したのは、そのリズムは最終的にキャストによって作られるということでした。私がやりたいのはキャストのパフォーマンスのリズムを見つけ、それに忠実であり続けることです。私は編集したくないし、編集しなくてもいい俳優と仕事ができることを幸運に思っています」[*5]。
「あらゆる映画の技術について言えることですが、映画の作り手がその技術を正しく使えるようにるとそれは見えなくなるんです。1970年代後半に発明されたステディカムを思い出してください。ステディカムが登場する以前は、あらゆる映画において階段で大変な戦いが起きていました。それが今や本当に優れた映画制作者によって作られた映画の中でステディカムで撮られたショットを指摘することはできないはずです。それが使われていることさえわからなくなっています。このように映画における技術はその進歩とともに見えないものになっていきます。私が『Welcome to Marwen』を誇りに思うのは、この映画が現実の世界と人形の世界の境目に到達し、その境目が見えなくなっているように思うからです。それは俳優たちの素晴らしい仕事と説得力のある物語があってこそ成し遂げられたことです。そうやって私たちは二つの世界を行き来できる。でも映画作家の仕事はそこで使われている技術に注意を向けさせないようにすることだと思います。観客が物語や登場人物に引き込まれたままでいられるように、その技術が見えないようにするべきです」[*6]。

しかし、こうしたゼメキスの狙いは残念ながら映画を通して観客に浸透していないようです。本作について書かれた映画評の中には、この映画で描かれる現実の世界と人形の世界の解離や分断を指摘するものが数多く見受けられます。たとえばピーター・トラヴァース氏によるRollingStoneのレビュー[*7]では、ホーガンキャンプの物語は「残念なことに『Welcome to Marwen』へ向かう旅の過程で重要な何かが失われてしまっている」と書かれています。
「問題の一部は大きさにある。ホーガンキャンプはがらくたによって彼の町を作った(財政は厳しく、彼は医療費保障制度の適用を受けられなかった)。ハリウッドのモーウェン(映画の中に登場する模型の町)はコンピュータで生成されたイメージとパフォーマンスキャプチャを使った演技によってもっと大がかりな製作物になっている。ゼメキスはその人形をスクリーンいっぱいに広がるヒーローと彼の味方、敵対者のレプリカへと変えている。問題は人形がリアルに見えないことだ。それらはゼメキスの『ポーラ・エクスプレス』や『ベオウルフ』における死んだ目をした生気のない登場人物を思い起こさせる。」「映画が現実に戻ると安心できる。カレルは彼を力づける存在である女性たちへの愛着を私たちに感じさせる。(中略)実世界の人間関係が進展すると、ゼメキスは全ての女性をそれぞれの役柄に対応する人形に変え、肉体は再び空想の世界に身をゆだねてしまう」[*7]。
トラヴァース氏のように実在するホーガンキャンプ氏の作品やドキュメンタリー映画に照らし合わせて本作を批判している人は多いようで、リチャード・ブロディ氏によるThe New Yorkerの映画評でも、ホーガンキャンプ氏が“Marwencol”を写真集として出版したりギャラリーに展示することで発展させた人間関係や広げることができた世界がゼメキスの映画ではまったく触れられていないことを問題視しています。
「ゼメキスがそれらの写真を小さなアニメーション映画へと拡張するとき、彼はホーガンキャンプの仕事を手段として利用するだけでなく、そのトーンまでもを風変わりでけばけばしいものへと変え、その作品に渦巻くエネルギーを薄めてしまっている。彼はそれ自体に価値のある美しい創造物に差し迫った献身を示す芸術家を観察することよりも、その芸術作品を目的を達成するための手段として、登場人物を彼が生まれ変わる物語の完結へと誘う力として描写することに興味があるようだ。ゼメキスは写真を小さな物語を変えるだけでなく、彼自身の物語の中にホーガンキャンプの作品を埋め込み、自身の映画の失敗を寓話にして描いている。ホーガンキャンプが実際に撮った写真にある秘密を、彼の人生の物語ではなく作品それ自体が持つ美の火花を見すごしている」[*8]。
ブロディ氏と同じくThe New York TimesのA.O.スコット氏も、ゼメキスが本作に自身の問題を投影していると考えているようですが、より好意的な見方をしているようです。
「ゼメキスは他の多くの映画作家よりもこの奇妙な谷間でより多くの地形を地図にしてきた。彼は人間と仮想の現実が混ざり合って衝突する世界で最もくつろぎを感じるようだ。そして彼は機知と感情とともにデジタル生成されたイメージを使う。『Welcome to Marwen』における人形のアクションシーンは痴呆症の精密さを備え、マークの強迫観念を反映した正当性を主張する。しかし現実のシーンは視点を曖昧にする方法で様式化されている。まるでウェス・アンダーソンの映画が、キャストがテレビのシットコムだと伝えられて出演したティム・バートンの映画の中で立ち往生しているかのようだ。私は悪い意味で言っているのではない。この映画ではリアルに感じられることや、完全に理解されることは決して多くない。しかしこの非常に奇妙な作品を忘れ去ったり、退けたりすることは難しい。カレルは魅力的で気を狂わせるような謎であり、感傷的でわざとらしいのに、どういうわけか常に共感を引き寄せる。私たちはマーク・ホーガンキャンプのことをよく知ることができるだろうか? いや、ここではあまりわからない。しかし、たとえ彼が何をしているのかを完全に理解することができなくても、自分の玩具で熱心に遊んでいるその男は深遠な場所にいるのかもしれない。私はいまロバート・ゼメキスについて語っている」[*9]。

*1
https://www.imdb.com/title/tt3289724/
*2
https://variety.com/2018/film/news/welcome-to-marwen-steve-carell-box-office-1203095464/
*3
https://movieweb.com/marwen-movie-review/
*4
https://www.telegraph.co.uk/films/0/welcome-marwen-trailer-robert-zemeckis-unique-ww2-biopic/?icid=registration_eng_nba158433_static
*5
https://www.salon.com/2018/12/21/steve-carell-and-robert-zemeckis-get-deep-on-welcome-to-marwen-process-and-pain/
*6
https://www.rogerebert.com/interviews/robert-zemeckis-and-steve-carell-on-welcome-to-marwen
*7
https://www.rollingstone.com/movies/movie-reviews/welcome-to-marwen-movie-review-771424/
*8
https://www.newyorker.com/culture/the-front-row/review-a-limited-view-of-an-artist-in-robert-zemeckiss-welcome-to-marwen
*9
https://www.nytimes.com/2018/12/20/movies/welcome-to-marwen-review.html

黒岩幹子
「boidマガジン」(http://boid-mag.publishers.fm/)や「東京中日スポーツ」モータースポーツ面の編集に携わりつつ、雑誌「nobody」「映画芸術」などに寄稿させてもらってます。


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