[191]ドイツ映画促進法 商業主義がドイツ映画を減速させる?


ドイツ映画促進法への新条項追加が再び滞っている。商業映画の利益のためだけの変更ではなく、根本的な変革が求められている。

現在の映画促進法は映画の評価を作品の質より興行収入に重きをおいて行っている。 それゆえ、ドイツで成功している一握りの映画は、映画促進法の恩恵を「成功報酬」という形で必要以上に受けている。そういうわけで、ドイツ文化庁とドイツ映画アカデミーを口説けば「ドイツ映画賞」が取れてしまうという構図ができている。大衆は映画の品質とは何かということをそろそろ考えなければならない。
 2013年に公開されたドイツ映画は223本で、10年前より112本落ち込んだ。チケットの総売り上げは330万枚で、市場シェアは10年前とほぼ変わらず26%だった。 これは、ほかのヨーロッパ諸国と比べても立派な業績である。ランキング上位8位までが興行収入の半分を占め、トップ50までで残りの90%まで達し、あとの173本で10%を分け合った。大作とアート/ミニシアター系映画の二極化という構図が出ているが、これは問題ないだろう。 また、自由貿易協定TTIP交渉において、視覚芸術の経済領域(映画や音楽制作)は交渉から除外されているが、法的枠組みの発展を切り離すことへの熟考は、大きな結束の契機を生んでいる。

映画促進法の補助金は250万億ユーロだ。この分配をめぐって議論がおきている。しかしながら、補助金に依存しすぎているというわけでもない。レンタルなどの二次利用によって、業界はある程度安定している。 問題なのは、制作委員会方式の場合、テレビ局の与える影響力が大きすぎるということだ。テレビ局は政府資金へのアクセスを得るために、子会社で映画を製作し補助金を得ることで映画促進法を利用している。 リスク回避のための「平凡さ、あたりさわりのない大衆向けの映画」こそがよいという価値観がのさばっている。このようなシステムは、映画の新たな生産·流通ネットワークの開発、新たな観客、新たな映画の形式自体の発展を妨げる。放送事業者、スポンサー、少数の生産者、流通業者の既得権の助長のためだけに固定化されたシステムとして映画促進法は機能している。こういった大作映画は芸術映画を圧迫し、現状維持のみを目指している。 経済的、芸術的に成功したかどうかというものさしや基準の明確化について、誰も興味を持っていない。それゆえ、このシステムは持続され、見直されることなく正当化され続けてきたにちがいない。

ein-film-der近年もっとも経済的成功を収めた作品『ゲーテなんてクソくらえ』の例は、この問題の理解のために非常に興味深い。ドイツ映画促進基金は、700万人を超える観客を映画館に動員したという理由でこの映画を擁護したうえ、経済的に成功したにもかかわらず、資金以上の300万ユーロを援助した。どういう経緯でこの資金が還元されたのか、また実際の資金の控除額なども公開されることはない。プロデューサーと二次利用業者は保守的な見積もりを出して、公開後に5300万ユーロの興行収益の半分を受け取り、200万ユーロ以上の利益を得た。 『ゲーテなんてクソくらえ』の返済補助金の場合は、プールされた助成金がほかの人に流れていくということはなく、ほとんど同じプロデューサの新作のために使用されることとなった。この映画はドイツにおける「最優秀劇映画賞」にFFAからノミネートされたとして、さらに25万ユーロ稼いだ。こういったハリウッド映画の模倣のような意気のないシステムがドイツでも行われている。みんなが安全策をとろうとしている。

現在の資金調達慣行は明らかに誤っているとして、ドイツにおける映画制作の背景や歴史を自省するこころみもでてきている。60年代、かび臭い戦後映画に対して映画製作者たちは懸命に戦った。彼らは経済的に成功することよりも、芸術的に意味を持つ映画を作らなければならなかった。『白馬亭にて』 、『ハンニ&ナンニ』または『ハイジ』といったような前時代的な「パパの映画」の伝統に対抗しなければならかったのだ。今では、昔のそういった活動の立役者たちを再発見しなければならないのだ。リスクの少ない映画製作の姿勢だけでなく、ベンチャー精神で資本主義でのし上がることを忘れないでほしい。 現在のシステムは、価値のある映画製作をすることより、日銭を稼ぐための映画製作に向けた教育につながる。つまり基本的に、巨大な雇用創出スキームを作り上げるということを目的としている。同時に、生き残ることのできる映画製作者はますます少なくなる。なぜなら、映画作家やプロデューサーの仕事が減少してきているから。 ドイツにおける最初の映画促進基金である若手作家のための理事会はもはや消え去ってしまった。かつて若りしヴェンダースがハントケの小説『ゴールキーパーの不安』を原作として制作したとき、助成金だけを元手に映画を撮った。70年代においては、有名人による原作などの保証がある場合、委員会で芸術映画を撮ることが可能だったのだ。
映画促進基金がなければ、ドイツは機能しない。それでも、ドイツの映画の資金調達システムは根本的に改革され、元の意図にたちかえり再調整する必要がある。システムはもはや映画の質を促進することはない。次世代の可能性にかけ、今の構造をこわさなければならない。そのために俳優たちが現在できることは、すべての芸術的リスクをあきらめ、映画学校での教えに反発していくことである。

つまり、放送局の影響を受けないようにするということだ。商業的成功が見込める大作商業映画のプロジェクトより、大作認定されていない芸術映画のプロジェクトへの融資を促進しなければならない。商業的成功だけが映画のすべてではない。映画促進基金は成功したプロデューサーに取り入るだけでなく、リスクある映画製作にも目を向けないといけないということである。 お金ではいい映画はできないが、それよりも間違ったインセンティブを設定してしまったシステム内では、そもそも品質のいい映画は生まれない。いい映画を作るために必要なのはお金はもちろん、システムなのだ。映画の未来は時代遅れのビジネスモデルを続ける限りありえない。 では、変革はありえるのか?それとも変革には「まとも」な人たちからの圧力があるのか?支配的なテレビや配給のシステムは、技術革新を防ぎ、助成金と法の押しつけによって生き残った。 考えなければならない時期がきている。

翻訳元: http://www.faz.net/aktuell/feuilleton/kino/das-deutsche-filmfoerdergesetz-braucht-einen-wandel-13461802-p2.html?printPagedArticle=true#pageIndex_3

藤原理子 World News 部門担当。上智大学外国語学部ドイツ語学科4年、研究分野はクリストフ・シュリンゲンズィーフのインスタレーションなどドイツのメディア・アート。上智大学ヨーロッパ研究所「映像ゼミナール2014」企画運営。ファスビンダーの『マルタ』のような結婚生活をおくることを日々夢見ております。


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