[723]マット・ディロンが語るラース・フォン・トリアー最新作『The House That Jack Built』


ラース・フォン・トリアー監督の最新作『The House That Jack Built』が12月14日からアメリカとイギリスで劇場公開されています[*1]。アメリカではR指定版の公開に先駆け、11月末にレーティングを受けていない“ディレクターズカット版”が一夜限定で上映されるなど[*2]、カンヌ国際映画祭でのプレミア上映時の途中退出者100人という情報を筆頭に公開前から何かと物議を呼んでいた本作は、ジャックという一人の男性が“芸術行為”として何十人もの人々を殺していく12年の歳月を彼本人の視点から描いた作品です。そしてそのジャックを演じるのはマット・ディロン。20歳のころにフランシス・フォード・コッポラ監督の『アウトサイダー』と『ランブルフィッシュ』で不良少年を演じて“ジェームス・ディーンの再来”とも言われ、青春映画はもちろん『ドラッグストア・カウボーイ』や『クラッシュ』といったシリアスな作品から『誘う女』『ワイルドシングス』といったサスペンス、あるいは『イン&アウト』『メリーに首ったけ』をはじめとするコメディ映画など幅広い作品に出演し、近年ではM・ナイト・シャマラン製作総指揮のテレビドラマ『ウェイワード・パインズ』での主演も記憶に新しい54歳のディロンにとって、本作は初めてラース・フォン・トリアーと組んだ作品であり、初めてシリアルキラーを演じた作品でもあります。米英での劇場公開に合わせ、あまり露出したがらない監督に代わるように精力的にメディアの取材に応じているらしい彼のインタヴュー記事をまとめてご紹介します。

まず、なぜディロンがジャック役にキャスティングされたかということについて、彼が監督に直接「なぜ俺が?」「なぜ俺がシリアルキラーを演じるのに適していると思ったのか?」と訊ねたところ、「君の顔が好きだったんだ」という答えが返ってきたとのこと[*3]。しかし、数少ない『The House That Jack Built』についてのフォン・トリアーのインタヴュー記事のひとつでその経緯は以下のように明かされています。
「ジャックのキャスティングは本当に難航した。私と映画を作りたがる俳優はたくさんいるが、この脚本ではやりたがらない。そんなときにマットを提案された。この何年か彼(の出演作)を見ていなかったから忘れていたんだが、彼が『ゴッドファーザー』のキャスティングを行った男に見出された俳優であることに気づき、ここに何かがあるに違いないと思ったんだ」[*4]

多くの俳優が難色を示した映画&役柄のオファーを受けたディロンは初めて脚本を読んだときのことをこのように振り返ります。
「ユニークだと思った。心をかき乱される内容であるがゆえに、逆説的にすごく滑稽でもあった。脚本を読んだとき俺は恋人とイタリアに滞在していたんだけど、俺が笑い始めたら彼女が何が可笑しいのかと聞いてきた。俺は“この台本はすごく面白いんだ”と、(最初のユマ・サーマンとの場面について)“この男が自分の小型トラックで女をひき殺すんだ!”と説明しはじめたところで、“おっと、これはそういう(殺人の)シーンだった”と我に返るような感じだったな。俺にはラースのように強烈な映画作家と仕事をしたがる性質があるのは確かだ。でもこの題材だろ。その暴力性に関して心配はあったよ。彼はこの話をなぜ、どのように映画にしたがっているのかっていうね。ラースはジャックについて自分に非常に近いところがあると言っていた。ジャックの強迫神経症であったり、欲求不満の芸術家といった側面をもとに描かれている要素は、彼にとって他人事ではないんだ。その点も俺がこの作品に興味を抱いた理由のひとつだ」[*5]。
「脚本についてもっと具体的に言うと、ジャックの精神をじっくりのぞき込む極度なまでの人物描写が気に入った。サイコパスに関する映画のほとんどは捜査官や被害者、あるいは被害者になる可能性があった人物の視点から語られてきた。この映画はそれを変えた。観客はサイコパスである人物の視点で、時に共謀者としてこの映画を観るんだ」[*6]

ディロンが思わず笑ってしまったという冒頭の場面は、予告編にも登場する、車が故障して立往生していた女性(ユマ・サーマン)をジャックが仕方なく自分の車に乗せるシーンです。その女性は「おっと間違いを犯したかも。私があなたとこの車に乗ってしまったことよ。あなたは連続殺人犯かもしれない。ごめんなさい、でもあなたってそういう風に見えるの」と言い、その言葉に誘発されたかのようにジャックは最初の殺人を犯します。このシーンについてディロンは興味深い見解も述べています。
「ユマ・サーマンとの最初のシーンには確信が持てなかった。(女性が自身を殺すように駆り立てる)あの場面だけジャックは受動的であるように感じたから。でもすべてがジャックの頭の中での出来事と考えるとはっきりするんだ! ユマのキャラクターはすごくリアルなんだけど彼女が喋りだすと、その言葉はジャックが内面で思っていることのように聞こえてくる。その考えをラースに話したら“思ってもみなかった”という顔をされたけどね」[*3]。
ジャックというキャラクターを形成していく上で当初はテッド・バンディのような実在の連続殺人犯を意識したものの、「でも一旦ジャックという人物が形になると、彼は独特なキャラクターになった」といいます。「なぜならジャックは自身の核となるものを持っていない。だから彼は様々な人格に変化する。彼の人格が分裂しているのではなく、彼の中には異なる複数の人格があるんだ」[*6]

脚本を読んでジャックという人物とその描かれ方に興味を抱いたディロンですが、一方で「かなりひるんでしまう難しい題材だったから“この映画はできない”と思った時期もあった」[*3]ことを認めています。彼が特に躊躇をおぼえたのは、ジャックが“シンプル(単純)”というあだ名で呼ぶガールフレンド(ライリー・キーオ)を殺害する場面だったといいます。ジャックは彼女を裸にし、外科手術をするかのように彼女の乳房の下に線を引いたうえでそこを切断するなど凄惨な描写が続くシーンです。
「俺がこの映画をやれないように思ったのはライリー(・キーオを殺害する)の場面のせいだった。撮影のあった日は本当につらかった。ライリーの怯える様が真に迫っていたからね。誰かを怖がらせるなんて自分の人生で決してやりたくないことだ。でもそれがこの映画で語られていることでもある。これはフィクションなんだから、道徳的な問題を持ち出しても説得力はないと思う。ただここで起こることを見てこういう言うべきなんだ。この人物は共感が欠如している。彼は病気を持って生まれたようなもので、大多数の人間が持っている自然な要素を持ち合わせていないんだとね」[*3]。
ディロンはこのジャックの“共感の欠如”が本作における重要な要素であり、また本作に対する「自己陶酔的だ」という批判への反論になるとも考えているようです。いわく、「ラースはジャックの代弁者ではなく、彼は異なる人々の間に議論を生み出している。この映画は連続殺人犯についての映画であるのと同じく、芸術家になれなかった男に関する映画でもある。ジャックが芸術家になれない理由は、彼は共感することができないからだ。それがなければ良い作品は作れない」「フォン・トリアーは妥協しない明確なヴィジョンを持った人で、真の巨匠のひとりでもある。この映画では僕らがほとんど知らない人間という生き物のある部分が探究されている」[*3]

そしてジャックを演じる上でトリアーが求めたことは、ジャックという人物を評価(judge)しないことであり、それが最も難しい挑戦だったとディロンは語ります。
「ジャックという人物から身を引いたり、批判したりせずにそのキャラクターの中に留まり続けるのは難しい挑戦だった」[*5] 「僕たちはジャックが同情されるかどうかということは考えなかった。結果については決して話し合わなかった。彼が何者で、どのように物事を見て、なぜ彼が行ったことをやったのか、それだけを考えた。ジャックという人物に評価を加えないというのは難しいことではあった。でもラースは“ジャックを裁かないでほしい。彼を評価するなら彼自身としてやってくれ”と言ったんだ。そしてある時点から僕はそのキャラクターに身を任せるようになっていた」[*6]

残忍な暴力シーンが続くこの作品ですが、撮影現場でディロンが「結局このキャラクターを演じることを拒絶したくなることは一度もなかった」[*6]のは、現場の雰囲気にあったのではないかと考えているそうです。
「本当に面白い体験だったよ。題材は暗いけれど撮影現場の雰囲気はすごく明るくてさ。セットには重い空気はまったくなかった。創造することの安らぎとでも言えばいいのかな。失敗する可能性はあるわけだけど、一旦それを気にしなくなれば、自由に創造して、身を任すことができるようになる。信じることが必要で俺はラースを信用していた。ラースにとっても俺が彼を信用しているという確信を得ることが大切だったと思う」[*6] 彼がそうした自由な雰囲気を感じることができたのには、フォン・トリアーがとった撮影方法が大きく関わっているようです。フォン・トリアーによれば、「私たちが使ったテクニックは、ひとつのシーンを様々な方法で撮影するということだった。最初の台詞を言っているときにここに座っていた人が、そのあと向こうに座っているということもあったかもしれない…それだけあらゆる場面をかなり緩く撮影した。そして編集時にそこから核心となるものを見つけていった」[*4]とのこと。その“テクニック”のおかげでもあるのか、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』撮影時のセクハラ被害を告発したビョークや『ドッグヴィル』のメイキング・ドキュメンタリー(『ドッグヴィルの告白』)で不満を訴えていた俳優たちとは違い、ディロンにとってトリアーの現場は「挑戦と失敗の機会を与えられ、解放を感じる」ものだったといいます。
「彼は人生のあらゆる側面で勇気がないが、映画監督としては本当に肝が据わっている。ラースが素晴らしいのは、俺たちがやりたいことをやらせてくれるところ。手持ちカメラだから、自分が行きたいところに行ける。彼は常に失敗する可能性を許容しているんだ。映画を撮り終わったあとでさえもね! 自分がやりたいことを何でも言えた。怒りだす人がいても彼はただ“私を責めろ”と言う。それが彼の作品に出た俳優が良い扱いを受ける理由であり、彼との仕事が好まれる理由だよ」[*3]

最後に、マット・ディロンが演技をする上で何を重視しているかを語った発言を抜粋してこの記事を終えようと思います。ここで語られていることは『The House That Jack Built』に限ったことではありませんが、彼がなぜ、どのようにジャックを演じたのかを知る重要な手がかりにもなる事柄ではないでしょうか。
「俺はあるキャラクターを演じているわけで、そこにいるのは俺だ。そうだろ? キャラクターの中に入り込むことで精神的に快適になるとは思わない。俺は架空の人物を頼りもしないし、架空の人物を演じることが自分の人生に何らかの癒しを与えるとも思わない。ある役柄を演じるとき、俺は物事を具体化はするが、ただ解釈してるだけだ。(中略)演じる役柄に自分に繋がる要素を見つけようとはするが、それは俺じゃない。役者という職業の素晴らしい点のひとつは他の誰かになれるということだ。例えば『クラッシュ』という映画で差別的な警官を演じたけど、あの男はくそったれの最低野郎だ。でも彼は自分が被害者であると感じる彼なりの理屈を持っていた、それが正しかろうが間違っていようがね。ルノワールがこういうことを言っていたと思う。“最も恐ろしい真実は誰もが自分なりの理屈を持っていることだ”(※注:『ゲームの規則』の“この世界に恐ろしいことがひとつある。それはすべての人間の言いぶんが正しいということだ”という台詞のことか)。自分の役柄を理解しようするときにそれを思い出すといい。あらゆることの裏には論理(logic)がある。人間の論理、キャラクターの論理がね。キャラクターの論理、それは俺にとってすごく重要なことだ。この人物はなぜこのような行動をとったのか? 俺は常にそのことを考えているつもりだ。何を読んでいたときかは忘れたけど、自分のことのように感じていた主人公に理由もなく裏切られた気持ちになったことがあった。そういうとき俺は“論理はどこにある?”と考え続けるわけだ。ただ『The House That Jack Built』ではそういうことを心配する必要はなかった。なぜならラース・フォン・トリアーは決してプロットのために登場人物を犠牲にしたりしないからね。俺が役者として時にイライラさせられるのは、言ってみれば理由や方法を考えずに“(物語を)ここへ進めたいから、とにかく役者にもそこに進んでもらう”という考え方だ。俺にとっては登場人物が好ましいかどうかよりも、理にかなっているかどうかのほうがよっぽど重要なことなんだ」[*7]

*1
https://www.imdb.com/title/tt4003440/?ref_=ttalt_alt_tt
*2
http://indietokyo.com/?p=10146
*3
https://www.indiewire.com/2018/12/matt-dillon-interview-lars-von-trier-the-house-that-jack-built-1202028057/
*4
https://www.filmcomment.com/blog/interview-lars-von-trier/
*5
https://www.telegraph.co.uk/films/2018/12/02/matt-dillon-interview-former-teen-idol-became-killer-2018s-extreme/
*6
https://www.salon.com/2018/12/14/matt-dillon-on-playing-lars-von-triers-psychopath-in-controversial-the-house-that-jack-built/
*7
http://the-talks.com/interview/matt-dillon/

黒岩幹子
「boidマガジン」(http://boid-mag.publishers.fm/)や「東京中日スポーツ」モータースポーツ面の編集に携わりつつ、雑誌「nobody」「映画芸術」などに寄稿させてもらってます。


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