『キャノンフィルムズ爆走風雲録』
―ハリウッドにタイマンを張った「カインとアベル」が遺したもの―

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2014年8月8日に85歳の生涯を閉じたメナヘム・ゴーランは、ディノ・デ・ラウレンティス(1919~2010)、カルロ・ポンティ(1912~2007)、ジョージ・ルーカスと並び、映画史上最も商業的成功を収めた独立系プロデューサーの一人だ。

故郷イスラエルにて舞台演出家としてキャリアを積んだゴーランは、60年代前半、独立系プロデューサーとして数多くのアメリカの映画監督・俳優を育て上げた名伯楽であるロジャー・コーマンの知己を得て映画製作の足掛りを掴み、1963年に『エル・ドラド』を監督し、映画界での本格的なキャリアを開始する。

紆余曲折を経たのち、遂には79年に買収したアメリカの独立系映画会社キャノン・フィルムズを自らの牙城とし、映画さながらのアメリカン・ドリームを体現するのである。

本作は、ゴーラン氏、そして彼のパートナーとして辣腕を振るった従兄弟のヨーラム・グローバス氏の二人の証言を中心に、彼らの手掛けた作品群の抜粋に彩られた、約30年に渡る栄枯盛衰の一代顛末記だ。

「映画を志すなら、そこに全てを捨てて打ち込め。観客のために映画を作るんだ。」
と、宣うゴーランのインタビューを皮切りとして、小気味よく挿入される抜粋映像の数々は、時にチープなシンセサイザーの喧騒が伴った80’sの娯楽映画のそれであり、時に静謐な文芸作品・アートフィルムのそれであり、その振れ幅は「量は質を保証する」という彼らの暗黙のドグマを如実に示している。
※次々とエポックな作品の抜粋があるにも関わらず、例によって『ゴダールのリア王』(87年)の抜粋は無い。本作のための映像利用許諾のメール・FAXをゴダールが無視したであろうことが容易に想像でき、相変わらずの御大である。

「芸術か娯楽か」といった二元論を抜きに、矢継ぎ早に映画を量産し続けること・一本の作品で採算が取れなくとも他作品できっちり取り返すこと。
それはひとえに、50~60年代の日米の大手映画会社におけるスタジオシステムの構造を想起させ、それを独力で成し遂げたところに、ゴーランとグローバスがアメリカに黄金郷〈エル・ドラド〉を築き上げた秘訣があるのではないだろうか。

また、興味深い挿話として『ブレイクダンス』(84年 ジョエル・シルバーグ監督)製作時のエピソードを挙げたい。

「深夜2時にゴーランから電話が掛かってきて、『今すぐカメラを持って西海岸へ飛べ!』って言われたんだ。」
と、シルバーグ監督は述懐する。時代はまさにヒップホップ黎明期。
西海岸のブラックカルチャー―ブレイクダンス―は、若年層にとって「ヒップさ」の先端を行くものであり、即座にそれを映画というメディアに落とし込み、観客に提供したゴーランとグローバスの慧眼は、今日の映画製作者達も大いに参考すべき点であろう。

現在では映画界にてごく一般化した映画作品のプリセールス(企画段階の作品に出資を募る方式)も、カンヌ映画祭のマルシェにてグローバスが当該作品の企画書、ないし一枚のポスターにて出資を募ったことが嚆矢となったエピソードも忘れてはならない。

ゴーランとグローバスは、先ず以て、優れた商才を有した抜け目ないビジネスマンだったのだ。

しかし、そんな栄華を極めた黄金郷〈エル・ドラド〉にも崩壊の影は忍び寄る。

1980年、『天国の門』(マイケル・チミノ監督)の興行的・批評的大失敗によるユナイテッド・アーティスツ社の倒産を契機として、映画監督達、そして古き良き活動屋然としたプロデューサー達の力が急速に弱まり、大学院でMBAを取得した若きエグゼクティヴ、所謂『プレイヤー』達が実権を握る時代が到来する。

キャノン・フィルムズが売りにしてきた、大いなる「荒唐無稽」な映画群は淘汰され、映画の現場が何たるかも知らない『プレイヤー』達の作り出すマーケティング至上主義に基づいた、より「健全」な映画群が、80年代を通してアメリカを席捲したのだ。

そして1986年、折からの経営不振による関係の綻びが頂点に達し、グローバスの造反によってゴーランはキャノンフィルムズを去ることを余儀なくされ、二人は訣別を迎える。

さながら、コーマン門下のかつての兄弟弟子である、マーティン・スコセッシ監督の諸作―「カインとアベル」のモチーフ―を彷彿とさせる終焉だと感じるのは、おそらく筆者のみではないだろう。

スコセッシ作品において、その多くが訣別した兄弟分の融和は遂げられない。
果たして、この『B級映画のカインとアベル』の人生は、再度どのように交錯するのか…

劇場にて、しかとお確かめ頂ければ幸いである。

また、本作の公開に併せ、『メナヘム・ゴーラン映画祭』も開催される。

上映作品に関しては、公式サイトの解説、または、IndieTokyo主宰の大寺氏による檄文を、是非ご参照頂きたい。

本作に抜粋された作品は勿論、日本初公開となる貴重な作品もラインナップされているので、この機会に是非ともお見逃しなきよう。

キャノンフィルムズの諸作が、いかなる「B級」だの「粗製乱造」だのといったレッテルを貼られようとも、それはメジャースタジオと比較した際の予算規模、加えて、当時の公開形態のヒエラルキーに由来した、稚拙なカテゴライズに過ぎない。

これらの映画が放つデタラメなパワーと、荒唐無稽さと、ふてぶてしい屹立振りこそが、「映画の面白さ・醍醐味」なのだから。

あらゆる映画をフラットに観ることのできる現代の私達は、これまで歴史上の小文字の固有名詞に甘んじざるを得なかったキャノンフィルムズの諸作を、歴史の大文字の固有名詞として定義し、次世代に喧伝できる喜ばしい権利と共に、30余年振りに「再発見」できるのである。

「そんな御託はいいから、とにかく映画を観て楽しめ!」と、ゴーランとグローバスからは叱られそうだけれど。

滝本龍