ハンガリーのブタペスト郊外の食肉処理場に代理職員として入ってきたマーリアは生真面目で他人と関わることがとても苦手な女性である。同じ食肉処理場で働く片手が不自由なアンドレはなかなか職場に馴染めない彼女を気遣うが、お互いの不器用さゆえになかなか上手くいかない。

ある日職場である事件が起こる。それをきっかけに二人は同じ夢を見ていることが分かり、少しずつ距離を縮めるようになっていく。

マーリアやアンドレの心の中の葛藤やもどかしさは決してドラマティックに重々しく描かれることはない。しかしそれらは、丁寧で繊細な表現を通して淡々とかつゆっくりと描かれている。例えば食堂の入り口で佇んでいるマーリアのガラス越しの視線や、光が差し込んで影にそっと足を戻す様子、夜に一人家で次の日の会話のシュミレーションをおもちゃで行う様子や、カウンセラーからもっと触れ合うことが大切と言われて牛に恐る恐る触れるシーンなど、それらはしっかりと観ている側の心の一番柔らかい部分に触れてくる。

夢の中ではアンドレは雄鹿、マーリアは雌鹿となっていて彼らは静かな雪景色の中に佇んでいる。この時にうつる鹿の目もとても印象的で、人間でいる時も鹿でいる時も言葉を使うことがあまり多くない彼らが目を通して会話をしているようにもみえる。

またその時の白い雪には決して冷たい印象はない。逆になにか暖かい感情を抱く。雪のシーンだけでなくこの映画では全体的に静かな落ち着きの中に暖かさと優しさが寄り添っているような感情を感じる。静けさの中だからこそ、葉が揺らめく音、吐息、風の音など普段わたしたちが意識することがあまりないような音がとても美しく聞こえる。だからこそ逆に食肉処理場でのナイフの音や、牛たちから出た血を流すためにホースから勢いよく出た水の音がとても残酷に耳に響いてくる。

アンドレとマーリアが発する言葉の一つ一つにはいつも重みがあって、しかしそれは鉛のような重みではなく、綺麗に透き通っている優しい重みである。そしてそれらは心地よく、しかし決してすぐに流れることなく私たちの心の中に入ってくる。

2人の交わす言葉は、まるで優しい雪が降り始めて地面で溶ける時のように観ている側に届く。彼らの言葉はしっかりと地面まで降り注ぎ、そこでもすぐに溶けることはないのだが、確実にゆっくりとじんわりと地に染み込んでいく。

また、この映画は素晴らしいユーモアのセンスも持ち合わせている。鑑賞中にアンドレとマーリアのお互いの気持ちを上手く伝えられない不器用さにもどかしさや緊張感を感じることもあるが、作中のユーモアの数々が緊張した心を少しだけ解き放してくれる。特にCD ショップのシーンでは、几帳面さや真面目さをもつ今までのマーリアらしい部分と、勇気を出して一歩踏み出そうとするマーリアの両方を大げさではないユーモアを使って表している。それがこれまた一層愛おしく、彼女の背中を押さずにはいられなくなる。

カンヌ国際映画祭で最高賞の金熊賞を受賞したこの作品だが、イルディゴ・エンエディ監督はそのことについてこう語っている。「この作品が映画祭に出品されることさえ驚きだった。典型的な受賞作品とは少し異なるようなテイストの作品であったから。なぜこの映画が金熊賞を受賞したのか人によって色々な理由を思いつくことができると思うけれど、審査員たちの理由はわたしがこの映画をつくった理由と同じだった。わたしはとにかく、 “ひとりひとりの心に触れる” 映画をつくりたかったの。賞を受賞して世界中を訪ねた時もたくさんの質問を観客から受けたけれど、それらのうちほとんどが彼らのパーソナルなことについて関連した質問だったわ。誰もが弱みや傷つきやすい部分を持っていて、そしてそれを隠そうとしたり強がろうと必死になっている。この作品は静かであるけれどその弱みや傷つきやすい部分をしっかりと描いている。だからこそ観客も自分自身を関連づけやすかったのだと思う。」

そして鹿を彼らの夢の中の動物として選んだ理由について、また食肉処理場の撮影について彼女はこう話す。

「食肉処理場のシーンでは、牛たちの何を映して何を映さないかにとても気を使ったわ。食肉処理場の職員の方たちに普段の様子と何も変わらず動くように頼んで、2つのカメラを使ってただ撮影したわ。できるだけ観客が彼らに感情移入することができるように顔や美しくて表情豊かな目を撮るようにして、そのあとすぐに牛たちが物体として扱われていく様子を映したかった。恐怖や不気味さを表現したくはなかったから、例えば彼らがスライスされて大きな体が落とされる瞬間などは映さないようにした。あと夢の中で鹿を使った理由は牛とどこか似ていると思ったから。2つの動物で、一方は自然の中に住んでいてもう一方は残念ながら私たち人間に処理される、それを見せたかった。」

作品を観終わった後の優しく透き通った暖かい感情は、観客の心からしばらく消えることはないだろう。そして日常生活の中でも普段はあまり意識することのない音や、音として耳に直接入ってくることのないような思いに暖かい思いで触れるようになる。「心と体と」はそんな映画であった。

『心と体と』
(2017年 / ハンガリー / 116分)
原題:Teströl és lélekröl
英題:On Body and Soul
監督・脚本:イルディコー・エニェディ
出演:アレクサンドラ・ボルベーイ、ゲーザ・モルチャーニ

樋口典華
映画と旅と本と音楽と絵画が、とにかく好きで好きでたまらない、現在、早稲田実業学校高等部3年生。興味をもったことは、片っ端から試していく性格です。