過日、草野なつか、竹内里紗、安川有果、三監督による座談会が行われました。草野監督作『王国(あるいはその家について)』につづき、山戸結希 企画・プロデュース 映画『21世紀の女の子』より、竹内監督作『Mirror』と安川監督作『ミューズ』の二作品を取り上げ、二回にわたって、レビューをお送りします。

『Mirror』 
 ある写真家の個展会場。「ありのまま、その姿を映し出す」と語る、その写真家の元を、一人の女性が訪れる。その女性は、かつてその写真家の出世作となった写真の被写体の女性だった。二人の当時の関係性を映し出した作品だったが、世間はそこに注目し、評価したのだ。長いブランクの末に再会した写真家と女性の間には大きな隔たりが生まれていた。自分で作品を生み出すということ、そして、世間から評価されるということ。そこから生まれるギャップを、女性表現者の視点で描いた作品である。
 
 一見、マスキュリンな世界観とは縁遠いように見える芸術の世界も、最近、露見してきたように、実際はかなりの男性社会である。古来、音楽や絵画が上流階級の女性の嗜みであったように、芸術を好む女性は、男性から好まれやすい。しかし、趣味の範囲を超えて、自分で表現する女性となると話は別である。男性社会で、女性の表現者として評価してもらうためには、何かレッテルが必要になるのだ。必要以上のエキセントリックさだったり、性的な面を強調した作風だったり。この作品では、自分で無自覚だった部分が、まさに世間で評価されるためのツールになることに気づいた表現者が、それを意識的に利用することで評価を得ようとする。その是非を問うことは難しい。何よりもまだ、女性の表現者を正当に評価する体制が整っていないのだから。

『ミューズ』 
 独学で写真を学んでいるソノコが偶然出会ったのは、美しいが、不思議な雰囲気を兼ね備えた女性だった。彼女の名前はミツコ。ミツコを被写体に写真を撮り続けるうちに、二人の仲は近づいていき、ソノコの前でミツコはリラックスしたような表情を見せるようになる。実は自分は小説家と結婚していることを明かしたミツコは、夫の小説で描かれる女性たちのモデルは自分であると語るのだった……
 
 この作品で描かれるミツコは、まさに夫である小説家の「ミューズ」である。芸術家のミューズとなり、自分をモデルにした作品が生み出されることは、一見とても好ましいように思われるし、実際、今までも、いろいろな芸術分野で、その芸術家自身の個人的なパートナーがミューズとなり、様々な作品が生み出されてきた。しかし、誰かの「ミューズ」として、その作品に、自分ではない自分が描き出され続けることは、本当にその「ミューズ」にとって幸せなことなのだろうか。作品を介して、そこに描かれた自分を知っている人間が多いことは、ある意味、恐ろしいことであるとも言える。世間は、その描かれた像こそが本人であると信じこむからだ。そして、誰よりも身近なパートナーである芸術家こそが、自分で作りだしたその像を信じたがっている。一度、誰かの「ミューズ」になってしまったら、その像から逃げ、自分を取り戻すことは困難なのだ。

 そして、私たちは、少しずつ変わっては来ているものの、それまでポジティブな意味で無邪気に使われてきた「ミューズ」という言葉に対する認識を変えなければいけない、ということに気づかされる。

©2019「21世紀の女の子」製作委員会

山戸結希 企画・プロデュース 映画『21世紀の女の子』
公式サイト
2/8(金)よりテアトル新宿、2/15(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか
全国順次公開

佐藤更紗
国際基督教大学卒。映像業界を経て、現在はIT業界勤務。目下の目標は、「映画を観に外へ出る」。