1996年生まれの23歳。快進撃は、サン・セバスティアン国際映画祭から始まった。ヨーロッパではカンヌ、ベルリン、ヴェネツィアに加え四大映画祭のひとつとされる同映画祭史上、最年少で新人監督賞を受賞(当時22歳)。以降、ストックホルム、マカオ、ダブリンと各地の国際映画祭で二度の最優秀撮影賞を含む四度の受賞をひっさげた『僕はイエス様が嫌い』が、いよいよ5月31日(金)より日本でも公開される。

先行して行われている国内の試写会でも、詩的で情緒いっぱいの映像と独特のユーモアに満ちあふれた温かい物語に、賞賛の声が上がっている。脚本、監督、撮影、編集の4役を一人でこなした処女長編の完成度の高さには、「新進気鋭」という言葉では足りないほどの才気がほとばしる。突然に現れた(少なくとも一般的には)「奥山大史(オクヤマヒロシ)」とは何者か?4つの角度から、映画づくりへの思いを含め、その創造力の原点に迫ったインタビューです。

 

■前章:「ユラ君は僕の分身」――ストーリーに込めた想い

――国内での試写が始まりました。手ごたえはいかがですか。

 

海外映画祭では、キリスト教というテーマについて評価していただくことが多かったように思います。日本での反応はまた違いましたね。子どものお芝居が良かったとか、ストーリーの流れが面白かったとか。普通に映画として楽しんでもらった感想を聞くと、テーマありきの映画にはならなかったんだなといううれしさはあります。宗教に詳しい人しかわからない映画ではなく、広く深い層に届く作品にしたいというのがまず念頭にありました。

 

――東京生まれ東京育ち、青山学院に通われていたということで、転校のご経験はたぶんないと思いますが、このユラ君の経験というのはどんなところからお話をつくられていったのでしょうか。

 

実は幼稚園のころに転園をしているんですよ。その経験が大きいですね。とにかく印象的な体験だったので、とても強く記憶に残っています。それまで通っていたのが、普通の幼稚園だったんですね。そこから突然、キリスト教の幼稚園に転園して。まわりはもう、自分以外はみんなキリスト教に詳しいというなかで覚える違和感とか、そこから来るちょっとした怖さのようなものは今もはっきりと覚えています。

 

――ユラ君の戸惑いには、ご自身の経験が生かされているんですね。

 

そうですね。初めて触れる宗教への戸惑いとか、みんなが覚えていることを自分だけが知らない状況に感じる疎外感とか、そういうものは大きく反映されていると思います。一方で不思議とすぐになじめてしまったのも、劇中のユラ君と同じです。子どものころってやっぱり面白いぐらい適応能力が高いですよね。ふと気づいたときには、もう一緒にお祈りを唱えていましたし、子どもなりに神様を信じていました。

――奥山さんご自身、小学生のころはどんなお子さんでしたか。

 

それこそユラ君みたいな感じでしたね。自分の実体験をもとに書いている以上、ユラ君の言い回しなどは自分に似てきてしまうんですよ。なので端的に言えば、ユラ君みたいな子、ですね。転校したとしても、いろんな子に活発に話しかけに行くわけではなく、誰が友達になってくれるのかなとじっと待つような子どもでした。

 

――ユラ君とカズマ君の関係が自然で、本当に友達同士のようでした。1週間という短い撮影期間で、あの雰囲気を出すのは大変ではなかったかと思いますが。

 

僕、子どもを映画に起用する場合、演出の半分以上はもはやキャスティングに委ねられていると思っているんです。だからこそ、オーディションにはすごくこだわりました。彼らが見つけられたのは本当によかったです。

演出面ということで言うと、脚本を渡さずにお芝居をしてもらったというのも一つ大きかったかなと思っています。撮影直前に、次はこういうシーンですっていうのを口頭で説明して進めました。それも、関係性の自然さに影響を与えているかもしれません。

 

――いくつも印象的なシーンがありました。二人が流星を観に行った場面の意味を知ったときには涙がとまりませんでした。私と監督では世代がだいぶ違いますが、それでも「懐かしい」と感じてしまう子どもたちの日常はどのようにつくられていったのでしょうか。

 

1週間ほど母校へ取材に行ったんです。学校生活を見学させてもらうなかで子どもたちを見ているうちに、自分の小さいころの記憶がよみがえってきたんですよ。建物も自分がいたときとほとんど変わりませんしね。ここでこういうことをしたなという自分自身の思い出と、目の前にいる子どもたちの日常が連なってできていったという感じです。子どもの頃にしていたことって、たとえそれが極端なことであっても、共感を得やすいのではないでしょうか。取材には、そんな共感を得られるような材料を集めたいという気持ちで臨みました。

 

――全編にわたる雪のシーンが心に残ります。雪の白さと少年の純粋さがマッチしているなと思ったんですが、あえて冬を選んだんですか。

 

正直に言うと、準備を進めていたら撮影時期が冬になってしまったんですね。じゃあ、雪を生かしてなるべく幻想的な世界をつくってみようと思いました。ロケ地もなるべく雪が残っている地域を探しました。少年が、異世界に触れていく物語なので、なるべく独特な世界観を出したかったです。

 

――以前、北海道の苫小牧でも映画を撮られていますよね。雪に対するあこがれみたいなものってあるんでしょうかね。

 

あるかもしれません。雪って足跡がはっきりと残るじゃないですか。それがすごく好きなんですよ。今回も足跡にはかなりこだわっています。ニワトリが歩くシーンとか、ユラ君とカズマ君の二人が初めてサッカーに向けて走り出すところ上から撮る場面がありますけど、二人には絶対に足跡のないところに行ってほしかったので、そこにもこだわりました。

 

■第1章:「表現」を模索するなかで培われた「表現者」としてのベース

――奥山さんは、小学生のときはロボットづくりに熱中されていたそうですね。マジックをするロボットをおつくりになっていたとか。

 

もともとはロボカップの大会で、障害物をクリアするタイムを競う部門に参加していたんです。ただ、表現の要素がぜんぜんないのがつまらなくて。そこで、マジックをするロボットを3年ほどつくっていましたね。今考えると何がすごいんだという感じですけど、キューピーちゃんの人形を乗せたロボットが、バッと分かれて、1体に見えたけど実は2体でした、とか、ピアノ線を張ったハンカチを操って舞っているように見せたり。6人ぐらいでグループを組んでやっていたんですよ。みんな小学生ですけど、各自が1体のロボットを受け持って、ロボカップの表現部門に出場しました。そうしたら、関東部門で優勝したんですよ。その後の全国大会でボロ負けしましたが。

ロボットに興味を持ったきっかけは、シンプルにドラえもんかもしれません。ロボットが出てくるアニメにも好きな作品はいっぱいありますけど、一番はドラえもんでした。あとは単純に、工作が大好きだったんです。ものをコツコツ組み立てていくというか、一人で熱中して取り組む作業が好きだったので、その延長線上にロボットづくりがあったという感じでしょうか。

 

――中学生になってからは演劇に興味を持たれたそうですね。

 

演劇に興味を持ったきっかけは、明確に一つあって、中学生のときに阿部サダヲさんが大好きだったんです。それで阿部さんが大人計画の「ふくすけ」っていう舞台に出演していると知って、行かなきゃと思いました。当時の阿部サダヲさんは、今みたいに国民的俳優というイメージより、もうちょっと何というか「やばい人」だったんですよね。その感じが大好きで、舞台を観てやっぱりすごいなと思って、こういう虚構の世界をいつか自分もつくってみたいと思いました。

 

――そこから映画の世界に入っていかれるわけですけれども、舞台よりも映画のほうで表現しようと思ったのはなぜですか。

 

単純にそのころ映画をきちんと見始めたというのもあると思います。演劇だけじゃなくて、映画という世界を知って惹かれたというか。舞台は幕が下りれば終わりですが、映画は残せますよね。あとになっても同じクオリティのものをまったく同じ状態で、時代や場所を選ばずたくさんの人に観てもらえるのは魅力ですね。ただ、もちろん演劇のほうが良い面もあると思っています。それを映画にうまく取り込めないかと、ワンシーンワンカットにしたり、見せすぎない美学みたいなものは取り入れようとしているつもりです。

 

■第2章:「画づくり」と「未知」へのこだわりが生む独自の世界

――イメージ先行でシーンをつくっていくのか、ストーリーがまずあって、この場面はこういうふうに撮ろうと組み立てていかれる感じでしょうか。

 

ストーリー先行です。ただ、ストーリーありきで必要な場面を考えていく中で、何となくニワトリが歩いているシーンを撮ってみたいなとか、何となく斜めで撮ってみようとか、そういうイメージがわく時がありますね。あまりに起承転結が明確だと観ていて読めちゃうので、大きな流れにはそぐわないけれども、あったほうがいいシーンというものもあります。今回の映画の場合は、特にそれがうまくいったのかなという感覚がありますね。

 

――撮影監督をされていたときに培った画づくりが生かされているということですかね。

 

そうですね。画づくりに関しては、今回も自分で撮影していますし、2、3年ほど撮影だけをしていた期間があったというのは、自分のスタイルのなかでは重要な部分だと思っています。

 

――今後も撮影監督と監督の二足のわらじでいかれるのでしょうか。

 

いずれは撮影監督の方に入っていただいて、演出に集中するということもしてみたいです。映画における撮影監督の役割ってすごく大きいと思っているんです。今はもうほとんど名前がチラシにすら書かれなくなっちゃったりしていますけど、映画を作るときには、やっぱり撮影監督の思想とか考えが、クオリティを左右するんです。

 

――こもって考えるタイプですか。歩いたりしているときにふっと浮かぶタイプですか。

 

わりとこもらないほうですね。取材したり、なるべく動いて考えるほうですかね。今回の場合は、とりあえずロケハンに行って、そこでフィルムで写真を撮ってたりする過程で、やっぱりこういうシーンを撮ってみたいなとか、この校舎、踊り場がすごくきれいだから、踊り場で話すシーンを入れたいなとか、取材先の牧師先生がしゃべっていたことを脚本に落とし込んでみたりとかもしました。

――頭の中でつくりあげたものというよりも、自分の目で見て感じたものをどんどん入れてつくっていくんですね。

 

今回に関しては特にそうでしたね。ただ、1個前につくった短編映画だと、ふと自分のなかに思い浮かんだアイデアをひたすら練っていくだけだったので、特に誰かと話したとか、取材をしたとかいうつくり方ではなかったですね。

 

――「写ルンです」で撮った3,000枚の写真を切り絵アニメーション風に構成した大竹しのぶさん主演の『Tokyo 2001/10/21 22:32~22:41』ですね。じっくり撮るのと、実験的な試みをいろいろしてみるというのとではどちらが好きですか。

 

どちらもつくる動機はあまり変わらないんです。今回の作品でも小さいイエス様を出したり、あえて4:3で撮ったりとか、試みをするという姿勢は同じです。なるべく既視感がないことをしたい、こういう映画はすでにあるよねとは絶対に思われたくないというのは、常々思っています。それは短編でも長編でも変わりません。ただ、たくさんの人に深く届かせたいということを考えると、短編ではなかなか展開しづらいんですよね。例えばテレビでの放映前提でつくられているとかでもない限り、短編単体で展開させるのは難しい現実がある。もちろん長編でも簡単ではないんですけれども、なるべく展開させたいということを考えると、同じテーマを扱うにせよ、短編より長編で撮ったほうがいいのかなと考えています。

 

――その、いろいろな人に深く届かせたいものとは、何でしょうか。

 

みんな一度は思っていたけれども、考えなくなってしまうことってあるじゃないですか。そういったことを映画にして、もう一回考えるきっかけをつくりたいですね。『Tokyo 2001/10/21 22:32~22:41』でも、ほとんど忘れていた親への思いとか、『僕はイエス様が嫌い』では、神様って何だろうとか、死ぬとどこに行くんだろうとか、そういうことに関して考えるきっかけを与える映画にしたつもりです。

 

――LOFTのコマーシャル(LOFT 「好き」スペシャルムービー)を拝見して、仲間とかお友達の輪を外から撮っているときの距離感、身近に感じるのに入り込めないもどかしさがいいなと思いました。今回、ユラ君とカズマ君にも、その独特の距離感を覚えたんですが、人を撮るときに意識していることはありますか。

 

一定の距離感を保つために、なるべくカットを割らないことですかね。それが、入っていけない感覚につながるのかもしれませんね。ワンシーンワンカットって、ちょっと客観視する感じがあると思うんです。客観視することで見えてくるものとか、考えられるものがあるはずなので、その距離は大切にしたいと考えています。

撮影というと、色や構図ももちろん大事ですけど、それよりも一番大事なのは、どこから撮るか、どれくらいカットを割るかだと思っています。

 

■第3章:オクヤマヒロシの体内に流れる、いくばくかのもの

――小さなイエス様がコミカルで笑いを誘います。監督のユーモアの感覚はどこから来ているんでしょう。

 

ユーモアの感覚ですか。しゃべらない面白さ、みたいなものは昔からすごく好きだったんですよ。アメリカのアニメってわりとそうなんですよね。小さいころずっと観ていましたね。例えば『エド エッド エディ(Ed Edd n Eddy)』っていうアニメでは、主人公の友達に「板っきれ」っていう、いつも板を持っている男の子が出てくるんです。本当に単なる板に顔が描いてあるんですけど、「おーい、板っきれ」って、ずっと板に話し続けるんですけど、「板っきれ」はもちろんまったく話さないっていう。大人がやっていたら頭おかしいんですけど、子どものナンセンスさって可愛らしくて良いですよね。

今回は、そういう感覚が、イエス様を演じたチャドさんと共有できたのが大きいかもしれません。イエス様の動きはほとんど脚本に書いていないですし、チャドさんにもあまり指示はしていないんです。僕が何を面白いと感じるのかをうまくくみとったうえで演じてくださったと思っています。

 

――お好きなアニメを伺った流れで、好きな映画監督とか作品などは。

 

尊敬している監督は沢山いますが、単純に好きっていう意味でいうと、グザヴィエ・ドラン監督とかですかね。一つテーマを一貫して自分の世界観で描いていく。その構築の緻密さや濃さに惹かれます。

今回も4:3の画面にしたのは、ドラン監督の『わたしはロランス』っていう映画を観た影響が少なからずあると思っています。あの映画も時代設定をちょっと昔にしていますよね。背中ショットが多いとか、音楽がかかったときは、もう同時録音をカットしてミュージックビデオみたいにして撮って、音楽がやむとまた普通に戻るという流れも好きですし、シーンが始まる前に部屋にあるものをパッパッパッとスライドショーみたいに映す手法も大好きです。そういう意味では、ちょっとだけ影響を受けているかなと思う監督の一人ですね。

一つ一つの質問に、穏やかな口調ながら、迷うことなくきっぱりと答える姿がとても印象的だった。23歳にして、すでに自分の表現したいもの、自分の強みを明確に把握し、それを表す手段として選んだ映画の世界。現段階では具体的な次作の計画は定まっていないものの、いくつかの企画が持ち上がっているという。今後の動向から目が離せない若き映画人の誕生、その第一歩を、スクリーンでぜひ!

5月31日(金)~TOHOシネマズ日比谷ほか全国順次ロードショー!

『僕はイエス様が嫌い』

監督・撮影・脚本・編集:奥山大史

出演:佐藤結良、大熊理樹、チャド・マーレー、佐伯日菜子ほか 

制作:閉会宣言

宣伝:プレイタイム

配給:ショウゲート

公式ウェブサイト:https://jesus-movie.com/

予告編:https://www.youtube.com/watch?v=c2DdsGkOdlg

小島ともみ
80%ぐらいが映画で、10%はミステリ小説、あとの10%はUKロックでできています。ホラー・スプラッター・スラッシャー映画大好きですが、お化け屋敷は入れません。