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1965年のイタリア映画『ポケットの中の握り拳』は、当時、26歳であったマルコ・ベロッキオ監督の第1作でありながらも彼の力量をまざまざと見せつけられる作品となっている。この作品は、視野を拡大していくと、1960年代後半に起こった世界における若者たちの反体制運動を想起させる。しかし、一方で細部に目を移していくと、登場人物たちの性格、行動、言動は、それぞれのシーンによって強烈な印象を与える。そして、そこには意味が張り巡らされている。

この映画は、マルコ・ベロッキオ監督が生まれたイタリアのピアチェンツァ県のボッビオが舞台となっている。そこは山々に囲まれた地方であり、鐘塔から町の外が映し出されるシークエンスでは、畑が広がる中で古びた建造物が点在しているだけである。しかも、ルー・カステル演じる主人公の青年アレッサンドロとその家族が暮らす家は、その町からも離れており、閉塞的な空間となっている。父親はすでに他界しており、家計を支える長男のアウグストは、ルチアという婚約者と町で暮らそうと考えている。弟のレオーネは、アレッサンドロと同様に癲癇を患っているだけでなく、知的障害を抱えている。母親は盲目である。姉のジュリアは、アウグストに思いを寄せるが、一方でアレッサンドロはジュリアに好意を持つという近親相姦的関係にある。

スクリーンショット (3)アレッサンドロがその姿を初めて見せるシーンには、彼の性格だけでなく、映画全体の特徴すらも反映されているようである。彼は冒頭において、突然、木から飛び降りて来るのである。この映画は、その予測不可能性を彼と物語の展開に宿している。アレッサンドロは、感情の起伏が激しく、突発的に声を上げて笑い出し、時に無表情となり、時に涙を流し始める。彼の感情の変化は予測できない。観客は彼の感情に攪乱され続けるが、彼の内なる世界という「見えざるもの」の表現がもたらす不安定さこそがこの映画の本質の1つといえる。
アレッサンドロが生活をする山脈に囲まれた地方、閉塞的な家族の空間が、彼の内に秘めた暴力性を増幅させていく。前半のシーンにおいて、アウグストが彼の部屋からジュリアを追い出し、アレッサンドロは彼女と抱き合う。その後に、アレッサンドロの顔がクロースアップされ、その顔の半分を境として光と影がはっきりと映し出される。それは、彼の暴力性の覚醒であり、彼に抑圧を強いる家族を死へと追いやるという発想の芽生えである。

この映画において、抑圧から解放の過程において、アレッサンドロの欲望の表現は見逃すことができない。抑圧と解放は、欲望と関連付けられている。アウグストを除く家族3人とアレッサンドロが父親の墓参りへとドライブをするシークエンスにはそのことが明確に表れている。オープンカーがアレッサンドロの運転する自動車を追い越すが、ジュリアがアレッサンドロを言葉によって奮い立たせ、彼はそのオープンカーを追い越し返す。この「走る」という行為それ自体には、欲望の開放が読み取れる。その死の谷へとその家族と彼自身諸共突き落すことを躊躇したのは、その時、彼が「走る」という行為によって、欲望(またはそれを一種の暴力性と読み替えることもできるかもしれない)を抑圧から解放させたからであり、さらには、疾走するオープンカーを追い越すことによって、疎外されて生きているアレッサンドロがジュリアから称賛され、承認欲求が満たされたからに他ならない。彼は突っ切るはずであった谷の直前で自動車を止めてしまったことに対して、運転に夢中になっていたと自問自答する。

スクリーンショット (9)アレッサンドロのジュリアに対する欲望もまた、その抑圧の空間を際立たせ、その解放へと繋がっていく。彼が家庭教師として教えている少年に、テラスで日光浴をしているジュリアの姿を描写させるシーンは象徴的である。ジュリアはスリッパを脱ぎ、脚を露にしているが、そこには性的な欲望を感じずにはいられない。そして、間接的とはいえ、アレッサンドロが少年にその姿を具体的に描写させようとする行為には、ジュリアに対する視覚的欲望、さらには彼女を所有したいという願望が含まれている。そして、このアレッサンドロがジュリアと直接的に触れ合えないという間接性は、その時のアレッサンドロとジュリアの関係における離れた距離でもある。しかし、アレッサンドロが母親を殺害した後には、アレッサンドロとジュリアは接近していくのである。エンニオ・モリコーネの軽快な音楽を背景として、2人はまるで子供のようにはしゃぎながら母親の部屋から遺品を外に投げ捨て、さらにそれらを庭で燃やす。その既存の権威的価値観を破壊するという解放的行為には、アレッサンドロとジュリアの親密な共犯関係が表れている。

スクリーンショット (11)アレッサンドロは母親、さらには弟のレオーネも殺害する。彼のその抑圧する家族から解放されたいという欲求がその決意を実行に移させる。しかし、決して彼は殺害する際に苦しませようとはしない。母親は崖から転落死させ、レオーネは薬の過剰摂取をさせることでバスタブの中で溺死させる。母親が転落した後には、宗教を否定する彼が信仰深い母親のために祈りを口ずさんでいる。アレッサンドロにとってのその家族の死とはいかなるものであるのか。彼は死を解放と見做しているようにも感じられる。アレッサンドロの殺害は少なくとも彼自身にとっては、家族から受ける抑圧の解放であると同時に、盲目の母親と知的障害を抱えるレオーネという重荷を背負った家族を解放させることである。それゆえに、彼は母親の葬儀の際であっても罪悪感すらも持たず、棺に足を乗せるなど快活な態度を取り続ける。

アウグストがルチアと町に引っ越し、アレッサンドロとジュリアだけの空間となった時、アレッサンドロの欲望は最高潮となって実現される。彼は家族の抑圧からの解放、ジュリアとの親密な関係を確立したいという願望を同時に具現化したのである。彼は、ヴェルディの歌劇『椿姫』の第1幕を締め括る楽曲を流し、歌いながら狂喜乱舞する。この歌詞の一部を引用する。

スクリーンショット (5)なにを望み、なにをしたらいいのかしら?・・・・・・楽しむことね、
快楽を無我夢中に遊びまわって死ぬことね! 楽しむことね!
楽しむことね!
いつも自由に
楽しみにうつつを抜かすのだわ、よろこびの小径を歩きまわる
私の生活。
昼も夜も
いつも陽気に
いつも新しいよろこびに
思いをはせるのよ。
(『名作オペラブックス2 ヴェルディ 椿姫』より抜粋)

これは『椿姫』において、高級娼婦のヴィオレッタ・ヴァレリーが、アルフレードへの恋の喜びを歌っている。そして、まさに、『ポケットの中の握り拳』の映画全体に貫くアレッサンドロの欲望の解放を暗示している。しかし、その楽曲が流れる中で癲癇の発作が起こり、ジュリアに対して助けを求め、叫びながら息絶える。たしかに、彼は母親と弟という2人の家族を殺害したが、彼の死は単純にその殺人を犯した彼への罰であるとは考えられない。アレッサンドロもまた、ラストに癲癇の発作で床でのたうち回ったように、彼を取り囲む環境の中で抑圧や疎外をされながら生きてきたのである。例えば、アウグストの婚約者ルチアの誕生パーティで、彼の孤独が強調される。キャメラが1人で佇んでいる彼を中心に捉えながら引いていき、人々が重なり合う中でその姿は見えなくなっていくのである。そのラストにおける彼の死は破滅ではなく、究極的に既成の世界から彼を解放したとは考えられないだろうか。彼は、彼を束縛する家族、彼が否定する宗教、当時のイタリア社会が強要する価値観から自由となる。エンディングには、静かにエンニオ・モリコーネの女性コーラスを伴った音楽が流れ始める。同様の楽曲が、オープニングやアレッサンドロが殺害を犯した際に流れると、不吉さや不穏さを感じずにはいられなかったが、エンディングでは、アレッサンドロを始めとし、弟のレオーネ、彼らの母親を包み込む鎮魂歌の意味合いが強く立ち現れてくるのである。

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Printベロッキオのレアな傑作2本が池袋新文芸坐で上映されます!
新文芸坐シネマテークVol.8 イタリアの怒れる巨匠/マルコ・ベロッキオ
3/18(金)『母の微笑』+講義(大寺眞輔)19:15開映
3/25(金)『エンリコ4世』+講義(大寺眞輔)19:15開映

第8回 新文芸坐シネマテーク


宍戸明彦
World News部門担当。IndieKyoto暫定支部長。
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士課程(前期課程)。現在、京都から映画を広げるべく、IndieKyoto暫定支部長として活動中。日々、映画音楽を聴きつつ、作品へ思いを寄せる。