ジョン・カーペンター作品連続レビュー企画第二弾では、デジタル・リマスター版試写に参加させて頂いた『遊星からの物体X』を紹介する。
上映前には配給・提供のboid主宰・樋口泰人氏が「本来は爆音映画祭でのみの上映とするつもりだったが、同世代の様々な映画人が逝去する昨今の状況もあり、いま一度カーペンターを盛り上げたいとの気持ちで公開に至った」との旨の挨拶をされていた。

 恥ずかしながらカーペンター監督作は『ゼイリブ』の一本しか観たことがなく、世の中は実は異星人に侵略されていて、彼らは考えるな、消費しろ…と人々を操っているのに誰もそのことに気づいていない、というその印象が強烈だったので、私はジョン・カーペンターについて、例えば『ゾンビ』にそういった要素があるように、社会に対しての示唆的なものを持ったホラー映画を多く作っている監督なのかな…とかなり漠然としたイメージで捉えていた。けれど『遊星からの物体X』については少し違った感想を抱いていて、舞台となった南極の風景も相まって、もっと理屈を抜きにした、人を寄せ付けないような恐ろしさのあるホラー映画のように感じている。
 映画を観終わった直後は、正直に言うと、果たしてこの映画が好きなのか、そうでもないのかはっきりとはわからないまま、ただ物体Xの造形と変身の瞬間がすごく気持ち悪くて恐ろしいということと、結末を含めた劇中の展開にいくつもの疑問が残っていて、どこか不安定な場所に放り出されたような印象を感じていた。
しかしその後、リメイク元となった『遊星よりの物体X』(1951年)を観た。冒頭で『遊星からの物体X』と同じ現れ方をするタイトルをみて、またあの恐ろしい世界を体験できるのだろうかとすごくワクワクした気持ちを感じたとき、『遊星からの物体X』という映画を自分が好きになっていることに気がついた。(そしてまた後日観た『ニューヨーク1997』で、カーペンター作品、めちゃくちゃ面白い!ということに漸くはっとして、立て続けに監督作を手に取ってしまった。)

映画の持つ、閉ざされた場所の中で仲間にまぎれている敵を見つけ出すという要素はミステリーやサスペンスのようでもあり(見た目で判断することのできない敵からの侵略に歯止めをかけることができない感じは少しパンデミックものにも似ている気がする)、それぞれの隊員たちに疑惑をかけるような不審な出来事が次々と起こる。しかし、それらは全て誰の仕業なのかはっきりとは描写されず、映画を観終わったあとも、解決していない謎が小さな引っかかりのようにいくつも残されている。
主人公の(彼が行動する姿を軸にそれまで映画が展開されていた)カート・ラッセル演じるマクレディですら、途中で観客の前から一度消えてしまう。その間に、あるきっかけから隊員たちは彼が物体Xに吸収されているのではないかと疑い、一度は彼を排除しようとする。結局彼は人間であったということがはっきりするが、この映画が主人公といった誰かの目線を通して展開していくものではなく、観ているこちら側も拠り所のないもっと冷たい世界に放り込まれたように感じられて、物体Xの造形だけでなく、その映画としてのあり方が恐ろしかった。
 マクレディの考案した血液検査の場面では、その思惑通り物体Xをあぶり出すことに成功したものの、その姿が現れた瞬間に誰も対処することができない。隣に座っていた人間がいきなり変身して、物体Xはどんどん天井まで達していくが、椅子に縛り付けられて身体の自由のない彼らはそれから逃げることもできずにただ見ているしかない。劇場で座ってスクリーンを観ていただけに、その恐怖や歯がゆさがとてもリアルに感じられた。それだけでなく、どうしようもないくらい圧倒的な物体Xに対して、肝心なときに手間取ってしまうマクレディも決して完璧でかっこいい人間ではなく、運命も彼に味方しているわけではないという突き放した描かれ方をしている。

 作品を観るうち俄然興味が沸いてしまい手に取ったインタビュー集で、カーペンターは少年時代に父から「いつでも疑ってかからなければだめだ。いまわたしが言っていることもだぞ」と言われたことについて語っていた。
「(前略)父は人間が成熟したことを示すしるしのひとつについて教えてくれた。
『まず私に質問するようになれ。私が言うことを何でも鵜呑みにしちゃいかん。何でもいいからなにか質問するようになることだ。でなけりゃ、どうやって物事を学べる?』と父は言うんだ。これは文句なしに理にかなった考えだった。(中略)父は私を一人の人間として扱おうとしていたんだよ。こいつの話は筋が通っているか、理にかなっているか、事実に即しているか、本当のことかなどなどを、自分自身に問いかけてみろと、父は言っていたわけだ。これには大変な影響を受けたよ。」
私にとってこの言葉が印象的だったのは、相手が人間なのか敵なのか、見た目だけでは判別することができないという『遊星からの物体X』の状況にとても当てはまることのように思えただけでなく、映画に対してあまり釈然としないような感想を最初は抱いていたことについての答えがあるように感じられたからだ。
もしかしたらこの映画は、現実の世界がそうであるように、出来事のひとつひとつをはっきりと完結した事実として提供するようなものではなく、辻褄はわからないけれど何か大変なことが立て続けに起きる、ひたすら現状に対処し続けなければならないという世界を描いていて、だからこそその中で行動し戦ったマクレディが運命を受け入れてしまったように思える映画のラストシーンも、一人の人間が迎えた結末として印象的なものになっているのかもしれない。

外の世界から孤立した空間で、未知の生き物の襲来によって一人ずつ登場人物が減っていく…という設定はなんとなく『エイリアン』を思い出させるけれど、『エイリアン』は最終的にはリプリーという主人公が生き残れるのかどうかといったところに物語が展開されていく。対して『遊星からの物体X』は、物語における誰かの目線を排したようにコントロールされていない、もっと冷たく突き放された世界に放り込まれるような恐ろしさがあるように思う。主人公すら一度は疑われる、何も信用することのできない世界では、物体Xを焼き尽くすためだけに発せられる火炎や、基地を破壊するための爆発だけが確かなもので、それには爽快感と不思議な美しさを感じさせられる。物体Xの作り込まれた造形の恐ろしさは、ただ恐怖を感じさせるためだけのものではなく、圧倒的な存在に人間が追いつめられているという状況をよりリアルなものに感じさせている。映画は一言で言ってとても怖いし、結末もバットエンドと言っていいくらいで、観ていて安心できるようなものは何もない。けれどその不条理な世界が完璧に作り上げられていて、そこで行動する人間の姿が描かれているからこそ、この映画に魅了されてしまったのだと思う。

『遊星からの物体X』デジタル・リマスター版は、10月19日(金)より丸の内ピカデリーほかにて公開。(ちなみにカーペンターが製作に携わった『ハロウィン』リブート版が全米で公開されるのと同日であるらしい。)また、10月10日(水)にはトークショーつき爆音プレミア上映イベントが開催されるほか、多数の執筆者たちがカーペンター作品について語る『ジョン・カーペンター読本』(発行:boid)も発売される。
また、カーペンターの1988年の監督作『ゼイリブ』も、製作30周年を記念したHDリマスター版が現在シネマカリテ他にて公開中。

引用部分/ジル・ブーランジェ編、井上正昭訳『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター[映画作家が自身を語る]』フィルムアート社、2004年、p67より

『遊星からの物体X』公式サイトはこちら
監督:ジョン・カーペンター
脚本:ビル・ランカスター(原作:ジョン・W・キャンベル・Jr『影が行く』)
出演:カート・ラッセル、A・ウィルフォード・ブリムリー、T・K・カーター、デヴィッド・クレノン、キース・デヴィッド
撮影:ディーン・カンディ
編集:トッド・ラムゼイ
特殊メイク:ロブ・ボッティン
音楽:エンニオ・モリコーネ
1982年/アメリカ映画/109分/カラー/スコープサイズ/原題”THE THINGS”/ターマン=フォスター・カンパニー作品/ユニバーサル映画
提供:boid/配給:アーク・フィルムズ、boid

『ゼイリブ』公式サイトはこちら

吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。大学は卒業したけれど英語と映画は勉強中。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感じが好きです。