ジョアンズについて私が知っている二、三以上の事柄
 ―ジョアン・ペドロ・ロドリゲス・レトロスペクティヴ2015に寄せて-

「あらゆる映画は『死』にまつわるものだ。しかし、それは再生をも意味する。」
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス

冒頭の発言は、2013年3月28日DOMMUNE配信「ジョアン・ペドロ・ロドリゲス/映画のファンタズマ」番組内における、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督によるものです。

処女作より一貫して、『再生』と『変容=変身』を主題とし、ビザールさと透徹さを併せ持つ映像美で知られる、このポルトガルの若き鬼才は、2000年の長編デビュー以来、世界中で賞賛を受けてきました。

ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督〈以下、ジョアン・ペドロ〉、並びに、公私に渡るパートナーである美術監督のジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ氏(彼もまた、優れた映画作家であります。)〈以下、ジョアン・ルイ〉の本邦初特集と、それに伴う彼らの来日から2年が経ち、この程、彼らとその作品群が再上陸を果します。

この2年という歳月は、早すぎるか、遅すぎるか、、、

本稿にて筆者は、2013年特集時の関係者の一人として些かのノスタルジアを含みつつ、当時を振り返りたく思います。

この拙文が、彼らの作品や人柄により多くの方々が触れるための一助となることを、願ってやみません。

Ⅰ. 革命前夜

全ての発端は、映画批評家の大寺眞輔氏が、彼らの長編3作目である『男として死ぬ』(2009年)と出会うところから始まり、その衝撃も冷めやらぬまま特集実現に向けて行動を開始されたのが2011年の秋頃だったと大寺氏は述懐しています。

折しも、その半年前には東日本大震災が発生し、一方で映画界は旧来のフィルムによる製作・上映のフォーマットからデジタルへの大々的な移行という変革に揺れており、あらゆる意味において激動の時期でした。

延々と終わりの見えない関係各所との煩雑な事務作業により、如何に大寺氏が忙殺され、苦難に見舞われたかは、正直なところ筆者にはつまびらかではありません。

しかし、この激動の真っ只中であったからこそ背負ってしまった、人生を賭してでもこの企画を実現させるという映画人としての「業」が、大寺氏を突き動かしたことには間違い無いでしょう。
(DOMMUNE出演時には、主宰の宇川直宏氏をして、「大寺さん、全部DIYなんて狂ってる!!!!!!!」と言わしめた程です。)

後に、さる関係者の方よりご教示頂いたのですが、盛況を博した『ポルトガル映画祭2010 マノエル・ド・オリヴェイラとポルトガル映画の巨匠たち』において、ジョアン・ペドロ作品も当然の如く選定対象だったものの、諸般の事情により見送られたとのことでした。

思えば、その時から既に運命の歯車は回っていたのです。

そして、翌2012年8月に、大寺氏を中心として上映企画団体『Dotdash』が発足します。(※現在は、IndieTokyoイベント・上映部に統合。)

参加メンバーは、以前より大寺氏主宰のシネクラブや自主ゼミに出入りをしていた筆者をはじめ、3~4名の学生が主体となる、ささやかな陣容でした。

Ⅱ. そして船は行く

我々Dotdashが最初に画策したのは、上映・宣伝費の捻出のためのクラウドファンディングです。

プラットフォームサイトはReadyForを選択し、我々の理念やメッセージを明確に届けたいという思いから、PR動画を製作することが決まり、監督依頼を快くお引き受けくださった冨永昌敬監督を中心に、真夏の茹だるような炎天下の中、法政大学市ヶ谷キャンパスにてPR動画の撮影は敢行されました。

Dotdashメンバーのみならず小段典子さん、インガ・ペルセフォネー嬢にもキャストとしてご参加頂き、大寺氏が書き下ろしたスクリプトを基に、冨永監督を除き一人もプロフェッショナルなスタッフがいない環境の中、スタッフに的確な指示を与え、驚くべき速さで次々と素材を撮り上げる冨永監督。

キャンパス内の人工池、花壇、高層階のゼミ室等、それらの見慣れた風景が冨永監督の演出により、画面の中で生々しく変容していく様子に立ち会えたことは、代え難い貴重な経験でした。

無事、一日で全ての撮影が終了し、その後公開されたPR動画の大きな効果により、ファンディング達成率134%を記録し、我々のプロジェクトは大成功を収めたのです。

※当該PR動画は、現在も『DotDash クラウドファンディング用メッセージ動画』としてYouTube上で閲覧可能です。

2012年のバンクーバー国際映画祭にてジョアン・ペドロと共に審査員を務め意気投合し、日本での再会を固く誓い合った篠崎誠監督、そして、映画作家としての活躍のみならず、来日した映画人の通訳としても八面六臂の活躍をされておられる藤原敏史監督の御二方からも多大なご協力を頂き、企画は着々と進行していきました。

また、映画プロパーのメディアのみならず、Yahoo!ニュースや講談社刊『HUgE』(2013年5月号 ※現在は休刊)に本企画が取り上げられたことも特筆すべきでしょう。

来るべき運命の日に向けて、確実に追い風は吹いていたのです。

Ⅲ. すべての革命はのるかそるかである

2013年3月21日夜、ジョアンズは日本に到着しました。

巨大なキャリーケースを一人につき二つ、計4つも携えてやってきた彼らから、長旅の疲れを見せる素振りもなく、深夜の高田馬場の路上で我々を熱く抱きしめられたことを今も鮮明に記憶しています。

焼肉店での歓待の席にて、二人共上手に箸をお使いになること、マカオがいかに魑魅魍魎の土地であるかということ、『ファンタズマ』や『オデット』がいかに衝撃的だったかということ等々……

まるで旧友と再会したかのようにとめどなく話が弾み、杯も進み、二人のチャーミングな人柄に拠るところが大きいと理解しつつも、映画を媒介にすれば国境も言語も年齢も超えることは余りにも容易いということを、月並みながら筆者は再認識したのでした。

ストイックなジョアン・ペドロと、陽気なジョアン・ルイ。
一見すると異なるタイプのように思えるこの二人が、実は非常に似通っており、その人生において不可分なパートナーであるというという事を理解するのにも、そう時間は掛かりませんでした。

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・来日最初の夜

そして中1日を挟み、いよいよ特集開始となる3月23日。

結果、『男として死ぬ』と『ファンタズマ』を上映したアテネ・フランセ文化センターでの初日は大成功を収めました。

老若男女の来場者の皆さんにより作られた、上映会場の4Fから地下1Fのリナスカフェ前までに至る大行列。

何より嬉しかったのは、アテネ・フランセ文化センターは、所謂「シネフィル」と呼称されるような映画マニアの固定客が大半を占めるようなきらいがあるものの、今回のジョアン・ペドロ特集に際して初めてアテネ・フランセに足を運んで下さった方が多数いらっしゃったことです。

(僭越ながら、これを契機としてアテネ・フランセの常連が増え、ミニシアター・シネクラブ文化がより活性化すれば…という淡い期待を筆者は抱いたのですが、この特集を最後に、本年の5月までアテネ・フランセ文化センターを会場とした上映活動は約2年間、雌伏の時を過ごすこととなります。)

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・アテネ・フランセ初日。満員の場内。

『ファンタズマ』上映後の超満員の会場に、颯爽と登壇したジョアン・ペドロとジョアン・ルイ。

感無量といった面持ちで会場を見渡した後に、ジョアン・ペドロが開口一番、
「今日この会を、去る3月12日にご逝去された梅本洋一氏に捧げます。」と発言。

映画批評家として、横浜国立大学教授として長年第一線に立たれ、幾人もの映画監督、批評家、研究者、プロデューサーが育つための「場」を創出してきた梅本洋一氏へ、ジョアン・ペドロが哀悼の意を表したその一時は、あまりに映画的な瞬間でありました。

梅本氏が、若き日の大寺氏、篠崎監督、青山真治監督を始めとした、まだ巷間にその名を知らしめる前の若き才能に、カイエ・デュ・シネマ・ジャポン誌という「場」を提供されたのと同様に、筆者を始めとした一介の映画ファンに過ぎない学生達へ、Dotdashというこの上ない「遊び場」の提供 ―薫陶の継承― が、今まさになされているのだと不意に思い、大変感慨深かったことを憶えています。

極私的な感慨はさておき、ティーチインの方は、ジョアンズにとってこれが1999年以来二度目の来日となる旨をはじめ、各作品の制作秘話等が次々と披瀝され、あっという間に終了の時刻となりました。

ティーチイン後には観客の皆さんからのサイン・質問攻め、フォトセッションの嵐に喜々として応え、来場者・関係者・ジョアンズ、その場にいた全員が祝祭的ムードに包まれたのは言うまでもありません。

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・初日の打ち上げ。同じく来日中のアマンダ・プラマーさんを交えて。

そして、
・翌24日の川崎市市民ミュージアム『オデット』上映後と、東京藝大馬車道
校舎『男として死ぬ』上映後のティーチイン
(ダブルヘッダー!)

・26日の立教大学・映像身体学科主催の公開シンポジウム
 (参考上映:『追憶のマカオ』)

・27日の映画美学校アクターズ・コースでの特別講座
(ジャン・コクトーの戯曲『声』を原作とした、『人間の声』〈監督:ロベルト
・ロッセリーニ〉と『火は上がり、火は鎮まる』〈監督:ジョアン・ルイ
・ゲーラ・ダ・マタ〉の参考上映の後、ジョアンズ指導の下、当該戯曲を用
いたワークショップが行われた。
同じ戯曲の映画化にも関わらず、全く毛色の異なる2本の傑作を前に、
一同陶然となる。)

・28日のDOMMUNE配信「ジョアン・ペドロ・ロドリゲス/映画のファンタズマ」
 出演
 (番組オープニングでの、アラン・ヴェガ『Dream Baby Revisited』の大合唱!)

こうして上記過密スケジュールをこなしつつ、当然の如く毎夜盛大な酒宴が行われ、怒濤の日々は瞬く間に過ぎ去って行ったのです。

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・DOMMUNE出演時の一コマ。Total Viewer数が5,000名を記録。

Ⅳ. 放蕩息子の帰還

3月一杯を東京で過ごした後、ジョアンズは京都周遊を満喫し、4月7日早朝の便で日本を発ちました。
(そう言えば、京都の溝口健二の墓所で撮影されたという短編作品は、その後どうなったのでしょう。)

ジョアンズ帰国後も、2013年を通して作品は全国を巡回し、総計15館以上での上映が実現しました。

この場を借りて、この企画に携わって下さった全ての方々に改めて御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

2年振りの来日・特集に於いても、兎に角、老若男女を問わずより多くの方々にジョアンズの作品に触れて頂きたい・ジョアンズに会って頂きたい、願いはこの二点に尽きます。

余談ながら、筆者の母は『ベニスに死す』を生涯のベスト1と公言して憚らない、平々凡々な還暦間近の主婦ですが、『男して死ぬ』を観た際に、『ベニスに死す』を想起し、涙が溢れて止まらなかったとのことです。

最後に、再度DOMMUNE出演時の発言を引用し、この稿を綴じたいと思います。

「ジョアン、君は日本で映画を撮る気はあるのか!?」
ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ
「勿論。現代の日本で西部劇を撮りたい。」
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス

そう遠くない将来、この戦慄の企画が成功することを祈って。

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・宇川直宏さんとジョアンズ。急な申し出にも関わらず、DOMMUNE出演を快諾してくださり、ありがとうございました。

滝本 龍

All Photo by 高森 諒