「ラザロよ。出て来なさい。」

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章 43-44

 

 カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したアリーチェ・ロルヴァケル『幸福なラザロ』は、前半と後半の二部構成をとっている。本記事ではとりわけ映画の前半部について紹介したい(ネタバレが含まれているため、まだ未見の方は注意していただきたい。また、本サイトでは昨年も本作品について取り上げている)。

 20世紀後半、市街地から遠く離れたイタリア山間部の小さな集落では、社会から隔絶され、泥まみれの服をまとった小作人たちが、侯爵夫人から課されるタバコ農園での労働に勤しんでいた。彼女ら/彼らは貧しい暮らしを強いられ、そこから逃れたいと思いながらも、この貧しさの責任は自分たちにあると信じきっている。恐ろしいことに、無給で、なおかつ負債があると信じ込まされている彼女ら/彼らは、自分たちが虐げられている存在であるということにさえ気づいていない。重労働に従事するこの悲惨な日々を、抵抗することなく従順に受け入れている。

 主人公ラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)は、誰よりも働きものの青年である。仲間たちからの頼まれごとを従順に引き受ける彼は、つねに誰かに呼びかけられ、都合のいいように使われている(この映画は、「ラザロ」と呼ぶ声から始まる)。しかし、このようにつねに搾取されている彼は、デ・ルーナ公爵夫人(ニコレッタ・ブラスキ)の息子タンクレディ(ルカ・チコヴァーニ)がいうように、誰のことをも「搾取しない」。

 この、デ・ルーナ侯爵夫人を頂点とする共同体は、タンクレディの狂言によって解体されるのだが、ラザロこそがこの共同体を支えるフレームとしての役割を担っている。それは映画の冒頭、仲間たちが宴を繰り広げている夜、一人で鶏小屋の見張りをするラザロの姿においてあらわれている。仲間から搾取され、こうした連鎖の底辺に位置するラザロ、あるいは集落の外れの山岳地帯、共同体を見下ろす位置に隠れ家をもつラザロは、共同体とその外部との境界線上で彼女ら/彼らを下支えする存在として描かれている。

 映画内に一貫して姿をあらわす狼は、小作人たちの大切な羊や鶏を殺すものとして恐れられている存在、つまり外部から到来し、共同体を撹乱させる存在である。搾取する側のタンクレディと搾取される側のラザロが友愛的な関係で結ばれ、神への祈りのような狼の遠吠えを真似るとき、共同体は内側から崩れはじめるのである。

 天空という超越的な位置から見下ろすショットによって示されるヘリコプター(それは螺旋helicoと翼pteronに由来する)は、聖書的な螺旋状の救済史を反復する。共同体の解体を予期するかのように、激しい熱にうなされ彷徨するラザロが高所から大地へと落下する-一度めの死を迎える-とき、ついに共同体は崩壊する。それと同時に、ヘリコプターは小作人たちを救済し、ラザロは時間を超えて回帰することになる。

 

 1980年代のイタリアで実際に起きた事件をきっかけとして制作されたこの作品は、搾取の問題、移民の問題、都市に進出した農民の労働問題などを、寓話などを取り入れながら描いている。作品の前半、まるで19世紀であるかのような牧歌的な雰囲気は、小作人たちの生活様式をはじめ、オレンジ色の柔らかな光で満たされたスクリーン、丸く枠取られたフレーム、粒だったフィルムの質感によってもたらされている(このオレンジ色の光彩は、映画の後半になると冷たいグレーへと変化するのだが)。しかしそれに最も貢献しているのはおそらく、ラザロという、不思議な魅力をもつ存在によるのではないだろうか。

 

映画『幸福なラザロ』は、本日4月19日(金)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開

『幸福なラザロ』(原題:Lazzaro felice)

(2018年/イタリア/127分)

出演:アドリアーノ・タルディオーロ アルバ・ロルヴァケル

ニコレッタ・ブラスキ ルカ・チコヴァーニ セルジ・ロペス

 

監督・脚本:アリーチェ・ロルヴァケル

撮影:エレーヌ・ルヴァール

編集:ネリー・ケティエ

音声:クリストフ・ジョヴァンノーニ

製作:テンペスタ

配給:キノフィルムズ、木下グループ

公式サイト:http://lazzaro.jp/

 

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。