アラン・ロブ=グリエの監督作品としては『ヨーロッパ横断特急』に続いて3作目となる『嘘をつく男』は、いまから50年前の1968年、当時のチェコスロバキアで撮影された。ロブ=グリエはこの映画の着想を、ボルヘスの『伝奇集』に収められた「英雄と裏切り者のテーマ」(1944)という短編作品から得たのだという。これはベルナルド・ベルトルッチ監督が『暗殺のオペラ』(1970)で取材した短編小説としてもっぱら知られるが、当時46歳のロブ=グリエはそれよりわずかに早い時期に、なぜか「鉄のカーテン」のすぐ近くでこの映画の撮影に取り掛かっていたのだった。
 
日本語訳の文庫版で10ページにも満たないこの短編、どのような話なのかとページをめくってみる。そこでは19世紀のアイルランドを舞台に、かつて人々の尊敬を集めた「英雄」その人が、実際に歴史を紐解いてみると「裏切り者」であったらしいことが、その発見を新たな歴史に記そうと試みる1人の男の視点で語られる。シェイクスピアをはじめあちこちからの引用と、入り組んだ構造を持つ掌編だ。ところでそのなかに、次のような印象的な一文があった。
 
「仮に歴史が歴史を模倣したとすれば、これは、実に驚くべきことである。歴史が文学を模倣するとは、とうてい考えられないが・・・」(1)
 
どうやら、この一文の「歴史」を「記憶」に置き換えてみると『嘘をつく男』の物語になる。ベルトルッチがこの短編からファシズムと父子をめぐる壮大な物語を生み出したのに対し、ロブ=グリエは1人の男の中に「英雄」と「裏切り者」を両立させ、個人の記憶と、それを語ることの曖昧さについての円環的な作品にしてしまったようなのだ。しかし、小説ではなく映画で。
 
映画は森の中で始まる。匿名的なグレーのスーツを身にまとったジャン=ルイ・トランティニャン演じる「男」は、やはり匿名的な無数の兵士たちの追跡を逃れ、日のささない迷路のような針葉樹林のをくぐり抜けていく。手榴弾が彼のすぐ背後まで迫っているが、なぜか「男」は全く別のことを考えながら、逃げることをゲームとして楽しんでいるようにも見える。銃弾をくらって仰向けに倒れた「男」は一度は死んだかのように見えるが、すぐに何食わぬ顔で起き上がると、再び森の出口に向かって、とぼとぼと歩を進めていく。やがて彼は唐突に「話」をはじめる。「僕の名前はジャン・ロバン。僕の話をしよう。少なくともそう努めたい」。
 
何やら魅力的な始まり方だ。しかし「男」の話をやすやすと信じることはできない。なんの説明もなく死から生還することもそうだが、「ジャン・ロバンだ」と宣言したはずの男は、そのすぐあとに自分は「ボリス」でもあり、さらに「ウクライナ人と呼ばれることもある」と、堂々と主張するからだ。信用ならない人物だ。「自分の話をしよう」という先ほどの約束もいまでは疑わしい。タイトルがすでに明らかにしていたが、トランティニャン演じるその「男」は「クレタ人は嘘つきだ」というあのパラドックスの中から這い出てきたような人物なのだった。
 
 
 
 

クレタ人たる「男」は森を出て、やはり匿名的な小さな村へ向かう。敵軍の占領下にあるらしいこの村で、次々に現れた奇妙な女たちとそれぞれに奇妙な関わりを持ちながら、男は自らが経験したという戦争の記憶を曖昧な言葉で語ろうとする。次第に、戦地で「男」の同志であったもう1人の「ジャン」という男が存在すること、村ではその男がある種の英雄として讃えられ、帰還が待ちわびられているようであることが断片的に明らかになる。女たちはそれぞれ「もう1人のジャン」の妻や妹などである。過去と現在を行き来するようにして次第に明かされていく戦地の記憶は、ジャン=ルイ・トランティニヤンが演じる「男」と「もう1人のジャン」の間の境界を、きわめて曖昧なものにしてしまう。男」は終盤で「僕はすでに死んでいるんだ。遠い昔、戦争で」とさえ告白する。フォークナー小説の登場人物ばりの「信頼できない語り手」である。「男」の話への疑念は膨らんでいく。

 
さて文学者としてのロブ=グリエは、その初期のエッセイ「新しい小説のために」でそのフォークナーやジョイスなどモダニズムの作家に言及しながら、伝統的な小説の語りの作法を強く批判したことで知られる。また人間と世界の関係について「人間は世界を見つめるが、世界は人間に視線を返しはしない」と述べて、人間中心的な視点からの描写を批判して、作家は視覚描写をもっと重視しなければならない、と主張した(※2)。これらの主張は、ミステリーの形式を換骨奪胎したかのような『消しゴム』や、『嫉妬』の冒頭の偏執的な事物への視線で実践されたが、『嘘をつく男』においても遺憾無く発揮されている。この映画は文学者としてのグリエの姿勢が、とりわけ色濃く出た作品ではないだろうか。映画の中では「二度起こる殺人」や「歩き回る男」といったグリエ文学に繰り返し現れるモチーフが反復されるほか「ロバン」という名を持つ男は30年以上後になって書かれる小説『反復』(2001)のなかでも再び登場する。(※3)
 
 
一方「嘘をつく男」には独特の視覚的な面白さもある。それは、こうしたグリエ文学に通じる「型」と矛盾するどころか、相互に響き合っているようだ。村のあちこちを永久に徘徊し続けるジャン=ルイ・トランティニヤン、そして彼と関わりあう女たち(この中で薬局の店員役を演じたのはグリエの妻で、当時覆面作家だったカトリーヌ・ロブ=グリエだ)。彼らの行動には脈絡がまったくないが、脈絡がないからこそ、カメラが映し出すその姿は非常に克明で、映画全体に具体的な印象と緊張感を与えている。時に前触れなくセックスにふける彼らを、冷たい視線でこちらを見つめ返す女たちを、あるいは館の中の忘れられた事物を、カメラはあくまで具体的な「もの」として捉えているようにみえる。「内的人間」も「意識の流れ」もそこにはない。「人物」を内面を持たない人形として、逆に「物」を意思を持つ存在として見つめるような視線は、グリエの小説を映像にしたかのようでもある。これは約10年後にシュレンドルフの『ブリキの太鼓』(1979)を撮影するチェコスロバキア出身のカメラマン、イゴール・ルターと、編集のボブ・ウェイドの功績でもあっただろう。
 
ところで、映画の撮影時期と時を同じくして、チョコスロバキアではドプチェク政権下での民主化運動、いわゆる「プラハの春」が勃発する。8月にはこれに反発するソ連軍率いるワルシャワ条約機構がプラハに侵攻し、直ちに全土を占領下に置いた。「存在の堪えられない軽さ」の、あのプラハだ。前述の冒頭の森の場面や兵士たちは、第二次世界大戦に占領国だったドイツ軍に徴用されたロブ=グリエ自身の記憶が色濃く反映されたものとも考えられるし、一方でこうした東西冷戦の境界線上の緊張が映画の中に漂っているとの指摘もある(※4)。
 
むやみに「意味」や「背景」を求めるのはよくないのかもしれない。話を戻そう。2人の「ジャン」のうち、結局どちらが「英雄」でどちらが「裏切り者」だったのか。あるいはそもそも「男」の話はすべてが嘘だったのだろうか。これらの疑念は、映画のラストで起こる殺人と、その後の奇妙な「反復」を経ても、なお靄につつまれている。
 
けれど「どうにか理解したい」という欲求をひとまず脇に置き、「男」の記憶の断片と、その奇妙な行動を見ることに意識を集中させることで、ようやく私は「クレタ人は嘘つきだ」の世界から解放される。そして冒頭の森の場面に戻り、改めて「嘘をつく男」のユーモラスでもある冒険を楽しむことができるのだろう。だから、この作品が映画としてジャン=ルイ・トランティニャンとともに生み出されたということに、私は密かに感謝したいと思う。(井上)
 
※1 ホセ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』(鼓直訳 岩波文庫 1993年)
※2 アラン=ロブ・グリエ    『新しい小説のために』(平岡篤頼訳 新潮社 1967年)
※3 アラン=ロブ・グリエ 『反復』(平岡篤頼訳 白水社 2004年) 巻末の訳者解説より 
※4 Carlos Kong, The Immortality of Lies.   <https://eefb.org/retrospectives/alain-robbe-grillets-the-man-who-lies-lhomme-qui-ment-1968/>
 

©︎1968 IMEC

嘘をつく男

監督・脚本:アラン・ロブ=グリエ 編集:ボブ・ウェイド
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン
1968年/フランス=イタリア=チェコスロヴァキア/モノクロ/スタンダード/95分
原題:L’HOMME QUI MENT/日本語字幕:金澤壮子

第18回ベルリン国際映画祭 銀熊賞(男優賞)

 

アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ公式HP
http://www.zaziefilms.com/arg2018/index.html
シアター・イメージフォーラム
http://www.imageforum.co.jp/theatre/

 

井上二郎 「映画批評MIRAGE」という雑誌をやっていました(休止中)。文化と政治の関わりについて(おもに自宅で)考察しています。趣味は焚き火。