以前ある映画のキャッチコピーで、「なんという、美しい悪夢ー」というのを見かけたとき、映画についての最高の褒め言葉のひとつじゃないかしらと思ってしまったくらい、映画は夢という要素を取り入れようとしている、むしろ夢そのものに近づこうとしているように感じることがある。
アラン・ロブ=グリエの4本目の監督作で、初のカラー作品でもあるこの『エデン、その後』も、夢や幻覚としか一言では言い表すことのできないような世界が描かれている。

 パリの大学生たちが「エデン」という名のカフェに集い、日々演劇に興じている。そこに突然現れた男がアフリカから持ち帰ったという「恐怖の粉」を試してみた女学生ヴィオレット(カトリーヌ・ジュールダン)が、幻覚の世界を体験する。
というあらすじが正しいのかどうか、モンドリアンの作品を模したような鏡とガラス張りの空間はカフェにはあまり見えないし、映画の前半で描かれる若者たちの行動はかなり倒錯的なもののように感じるし、恐怖の粉を試してからの後半の展開は場面場面の前後の繋がりがあまりよくわからず、筋道を立てて説明することができない。この映画について思い出そうとすると、物語や映像の連なりではなく、赤い血糊や青い海に建物の白といった色の鮮やかさだけが、切り取られた一枚の絵のように記憶に浮かび上がってくる。これは自分が以前みた夢について考えてみたとき、一部始終ではなくその断片しか思い出すことができない感覚にとてもよく似ているように思う。

 一個人の率直な感想としては、冒頭から終盤まで、この映画のなかでずっと繰り広げられる若い男女のSM遊戯のような描写に食傷気味というか、美女が目隠しをして両手を縛りつけられていたり檻に囲われていたり、拳銃で遊んでみたりといった、まるで絵に描いたようなSM的光景があまりにも氾濫していて馬鹿馬鹿しいとすら感じてしまったし、当然のことのように下着が見えそうなシャツ一枚であちこち彷徨うヴィオレットの姿には少し笑ってしまった。それでもこの映画のことが嫌いではないのは、予測不能な夢の世界を旅するかのような魅力があるだけでなく、映画を通して、主役の女学生ヴィオレットを演じたカトリーヌ・ジュールダンが一方的に虐げられたり、または虐げたりするようなひとつの立場にとどまらなかったからで、彼女は幻想の中で縛られたり囚われたり悲鳴を上げたりする一方、カフェ「エデン」では蔑みの眼差しを向けながら、襲われる友人を眺めている。そのSM遊戯は、学生たちが演じているものだからだ。
(なお、1989年のニューヨークタイムズ紙でロブ=グリエが小説と映画の関係性について述べた記事のアーカイブ*1では、彼自身は、過激で性的な表現について
「我々の社会の中で、レイプと拷問のイメージは人々に取り憑いている。おそらく、それらのイメージに心を掻き乱される人々とは、その幻想をみるが、しかしそれを認めようとしない人々だ。私はそれらのイメージの持つ有害さを少なくするため、日の光のもとにさらそうと試みてきた。」と言っている。)

物語の舞台となる「エデン」という場所について、(おそらくヴィオレットの)ナレーションはこのように語っている。

講義の前や後、講義の代わりに行き、自分たちで話を作り演じるところ
演技で悲しんだり喜んだり、愛しあったり別れたり、冒険したり
なぜなら学生生活は無駄で、現実には何も起こらないから

また、「美しい青春は崩壊した、若者が好む娯楽は同性愛の売春と輪姦ばかり」と書かれた新聞記事を読んだときには実際に試してみた、と語っている。私たちは熱心に本気で演じた、と。
「エデン」で若者たちは射殺や毒殺による死を演じているし、ギターや空き瓶をかき鳴らすかなり奇妙な葬儀まで演じる。戦争ーレジスタンスや裏切りも演じたと語っている。死を演じながらも、実際には何も起こっていないということを知っている。演じることが、何も起こらない閉塞感や、上の世代の保守的な価値観への抵抗であるかのように。

 映画のオープニングでは、男女の声のボイスオーバーによって、キャストやスタッフの名前とともに”演劇”、”幻影”といった単語が語られていく。一番最初に発せられる「タイトル、文字」という言葉から一拍置いて、まるでそれが命令だったかのように画面には「エデン」という文字の看板が現れる。それをみたときに感じたのは、この映画を始めようとする作り手の存在で、もちろん映画は作りものではあるけれど、これは仕組まれた世界なのではないかということだった。冒頭の、白いドレスを着て目隠しをした女性が銃を構えるロシアンルーレットの場面でも、向かいに立たされた男にきっと弾が命中するんだろうなという、どこか見え透いた結果へと向かっていくような退廃的な遊びという印象があった。
「恐怖の粉」による幻覚の世界が展開されると、それまでとは打って変わって青い海に白い建物の映える異国の景色が舞台となり、映画が予測がつかないものへとどんどん変化していく。まさしく夢のように、起こる出来事の繋がりも意味もわからず、映画というより絵、人物というよりマネキンを見るような意識で、エロティックなイメージの過剰な氾濫に立ちあう。
 けれどカラーの画面で鮮やかに映えているいかにも嘘っぽい真っ赤な血糊は、幻想の世界ですら、そこで起こる何もかもが嘘で作りものだと主張している。カフェ「エデン」で何も起こらない現実のために演技に耽る劇中の学生たちと、映画の作り手がどこか通じあっていて、倒錯的な夢を作り出すという同じ抵抗をしているような気がしてしまう。

参照
*1https://www.nytimes.com/1989/04/17/movies/robbe-grillet-on-novels-and-films.html

『エデン、その後』
監督・脚本:アラン・ロブ=グリエ
製作:サミー・アルフォン
撮影:イゴール・ルター
編集:ボブ・ウェイド
出演:カトリーヌ・ジュールダン(『あの胸にもう一度』)、ピエール・ジメール、リシャール・ルドウィック
1970年/フランス =チェコスロヴァキア=チュニジア/カラー/ヴィスタ/98分
原題:L’EDEN ET APRES
日本語字幕:斎藤敦子
©️1970 IMEC

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吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。大学は卒業したけれど英語と映画は勉強中。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感覚が好きです。