いよいよ最終日を迎えた第33回東京国際映画祭。最後の記事はワールドフォーカス部門から、『トラブル・ウィズ・ビーイング・ボーン』を紹介する。

 

『トラブル・ウィズ・ビーンイグ・ボーン』

夏の間、森の奥で父親と共に日々を過ごす少女エリ。プールでの水遊びに、眠れない夜の音楽。夜には父と娘ふたり、1つのベッドで思い出を語り合う。この少女は男と記憶を共有し、失われた娘の代わりとなって生活を共にしている少女型アンドロイドである。

人間と記憶を共有したアンドロイド・エリを見ていると、我々人間もまたエリのように、ある特定の記憶を幾重にもコピーしたものにすぎないのではないか、という疑念が浮かんでくる。
例えば、ビデオに映った自分。小さい頃の映像をみて当時のことを懐かしく思い出す。けれど、この技術によって複製された自己は単なる物質であり、そこに「私」自身は存在していない。私を名乗る記憶は、「私」ではないのである。一方、昔を懐かしんでいる現在のこの「私」の方はどうだろうか。するとこの「私」すら、無数の過去の映像をコピーしでできた、データの束にすぎないような気さえしてくる。エリを通して見えてくるのは、自己の存在の不確かさである。

しかしそれでもやはり、私たち人間とエリの間には大きな溝があるように思えてならない。
その一つの要因は、このアンドロイドの完璧なビジュアルにある。彼女のもつ異様な自然さと不気味さは、アンドロイドと人間との間に壁を打ち立てることに成功している。しかし最も決定的な違和感は、エリの存在の核の部分にあるだろう。彼女の有している記憶は一体何によって束ねられているのか。彼女を形作っている記憶は、その空虚な身体にただインプットされているのみだ。何度も繰り返される言葉は、記憶というデータの中心の不在を思わせる。

だからこそこのアンドロイドの存在は、時間的、空間的なカオスを生み出す。人間の時間は、ごく普通の日常的な思考の上では直進している。時間はただ前に進み、「10年前」「60年前」、、と過去を振り返る。我々は常に現在を生き、過ぎ去ったものは自己の記憶の中に留まるのみだ。しかし中心を持たない彼女は、そうした直進的な時間性すら消失させてしまうのだ。
物語の中盤で事態は大きく動きだし、エリの身にも変化が起こる。空虚な容器に入れられた記憶たちは、一つの束となることができずに自らの身体を動かしていく。そして彼女の身体を追うこの映画もまた、ばらばらの、しかし確かに存在しているその記憶を追いかけ、混沌を深めていく。

「矛盾や闇が入り混じり、夢のように説明不能でカオスな深みに誘うこと、それが映画の魅力ではないか」と語るサンドラ・ヴォルナー監督。初長編監督作「The Impossible Picture」で2019年ドイツ映画批評家賞を受賞し、バーデン=ヴュルテンベルク映画アカデミーの卒業制作作品として製作された本作は、ベルリン映画祭エンカウンター部門審査員特別賞を受賞している。

時間軸すら曖昧な、まさに深く混沌とした世界の中にアンドロイドの不気味さが溶け込んだ独自の美的世界。その世界に我々を誘う音響にも注目だ。SF的な主題が、記憶に囚われ記憶に生かされている私たちの有限な身体と融合しくしていくさまに、この映画の魅力があるだろう。

 

《作品情報》
英題 The Trouble with Being Born /オーストリア、ドイツ/2020/カラー/94分/ドイツ語
監督・脚本:サンドラ・ヴォルナー
脚本:ロデリック・ヴァーリヒ
撮影:ティム・クローがー
編集:ハンネス・ブルーン

 

 

小野花菜

文学部に在籍している大学3年生。趣味は映画と海外ドラマ、知らない街を歩くこと。