普段、見ている日常はどこまで見えているのだろう。

日常はすぐそこにあるはずなのに、意識をしていないと気付けないことは多い。

 

この作品は、実際にイタリアで1978年に起きた、極左武装集団「赤い旅団」によるアルド・モロ元首相誘拐暗殺事件を、実行犯側から描いたもの。

誘拐されたモロ元首相は、主人公の女性キアラと、「赤い旅団」である仲間と暮らす家に監禁される。

閉じ込めらた部屋は本棚の裏に手作りで作られたもので、覗き穴のあるドアに防音された壁、その部屋を監視する空間も作られている。

そしてキアラは仲間の男と偽りの夫婦として暮らし、結婚指輪をつけては外す。

秘密をすっかり盗み見ているようだ。

 

そしてこの作品で何度もある、モロ元首相が監禁された部屋を覗くキアラのシーン。

覗き穴から漏れる光でキアラ目線がどことなく落ち着かないことがよく分かる。

秘密が本当に秘密なのか。この秘密は夢じゃないのだろうか。

 

私は人が秘密を持った時のその興味の奪われ方の偏りに怖さを覚える。

それはこの物語では暴力での解決を信じる「赤い旅団」に対して、そして誰よりも主人公へ。

 

世の中に、秘密を持った人なんてきっと沢山いて、当たり前だと思うのだけど、

秘密を大切にしすぎて、その秘密を何度も思い出す(キアラが何度も部屋を覗くように)というのは、もっと見えるはずの視野を奪っているように見える。

 

冒頭の子供への扱いや、仕事のこなし、叔母との会話もすべて、日常の些細な幸せになり得るものすべてが邪魔なもののように見えていく。

そばにあるはずの日常が、遠くにあるようでとても切ない。

 

この映画がほとんど家のシーンで撮られていて閉鎖的で暗く、気持ちが閉じこもる中で、

キアラは働きに出たり、家族と同僚との会食など、仲間の中で唯一、表立って外と関わっている。

その関わりから少しずつ視野が広がり、キアラは秘密を放ちたくなる。

 

段々と変わるその気持ちの変化が、夢のように画面に現れていくのが印象的で、引き込まれる。

何が現実なのか、映画の中で言われるように、もしかしたら想像の方が現実的なのか?

 

しかし、そのまま秘密は秘密にされたのかもしれないし、もしかしたらこっそり誰かに喋られたのかもしれない。

そんな最後のシーンからは、どうにだって出来たのかもしれないとも思わせ、 同時に奪われた視野からはどうにも出来ないのかもしれないと思わせられる。

私たちの思う現実とは日常とはなんなのだろうか…?

そう考えてはまた当たり前のように私は日常へと戻っていくんだろう。

私の信じている、そこにあるはずの日常へ…。

 

『夜よ、こんにちわ』

 


Printベロッキオのレアな傑作2本が池袋新文芸坐で上映されます!
新文芸坐シネマテークVol.8 イタリアの怒れる巨匠/マルコ・ベロッキオ
3/18(金)『母の微笑』+講義(大寺眞輔)19:15開映
3/25(金)『エンリコ4世』+講義(大寺眞輔)19:15開映

第8回 新文芸坐シネマテーク

住本尚子 イベント部門担当。 広島出身、多摩美術大学版画科卒業、映画館スタッフとして勤務、映画と美術の懐の深さで生きています。映像製作初心者で、もがきながらも産み出す予定!