去る1月、草野なつか監督、安川有果監督、竹内里紗監督という、いずれも今月に新作が公開される3人の映画監督による座談会に立ち会わせて頂いた。『王国(あるいはその家について)』レビューに続いて、今回は『21世紀の女の子』から安川監督の『ミューズ』と竹内監督の『Mirror』を取り上げたい。

山戸結希監督の企画・プロデュースによる『21世紀の女の子』は “自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること”を共通のテーマに15名の新進監督がそれぞれの思いを8分以内で形にしたオムニバス映画であるが、『ミューズ』『Mirror』は両作ともに同性に惹かれる女性の写真家を主人公に据えている。しかし、その8分の中で経過する時間には大きな開きがあり、舞台となる空間も1か所か複数かで異なる。それぞれの主人公が何をどう写すのかにも違いがあり、全く別のアプローチを見せていた。

『ミューズ』
独学で写真を撮りながらいずれは海外で勉強したいという夢を持つソノコ。彼女が5月の半ば過ぎに出会った美しい女性ミツコは、小説家の妻であり彼の作品のミューズでもあった。世間では「元モデルで酒豪」という面が強調されるミツコ。どこか謎めいた彼女を写真に撮るうちにソノコはミツコのそばにずっといたいと思い始める。「夫の小説に登場する女性は若いうちに自殺するんだけど、それって幻想だと思わない?」と問いかけるミツコは、ある日突然姿を消す。5月中旬から夏までの出来事が断片的に過ぎ去りながらも、それでいて濃厚な時間が残る。

芸術家に閃きや刺激を与えるミューズという存在は、芸術家にとっての創作源であるばかりでなく、受け手には憧れや崇拝の対象ともなる。しかし、芸術家の目を通して表現される女性自身は、“ミューズ”というフィルターを通して自分を見られていることにどういう思いを抱いているのだろうか。世間から求められていると思い込んでいる自分の像に。もしかしたら、ある一面を誇張されたミューズという存在に自分をはめ込んで窮屈になっているかもしれないし、自由になりたいと思っているかもしれない。誰かにそれをわかって欲しいと望んでいるかもしれない。それは全て憶測にすぎないが、この作品において小説家の夫が表現するミツコと、ソノコが写真に撮るミツコはそれぞれが被写体としてミツコを切り取りながらも、全く異なるミツコだったのだと思う。『きみの鳥はうたえる』(2018/三宅唱)で奔放に舞い踊っていた石橋静河の体は、本作でもソノコとしてしなやかに音に乗り躍動しながらも、それは自分の為の踊りというよりはミツコという一人の女性の為に踊っているようにも見えた。一方的なミューズとしてミツコを写すのではなく、彼女を開放する為に。


『Mirror』
写真の個展を準備中のとあるギャラリーで、写真家ナギサがモデルの写真を撮っている。そこに現れたアユムは、かつてナギサが撮影した写真に二人で一緒に写っていた女性だった。その写真はナギサに“同性愛者の写真家”というイメージを沸き立たせ評価されるきっかけともなった作品。ナギサは自分から同性愛者の写真家ということを公表したことはなかったが、世間から求められる写真を撮り続けることで結果としてそのイメージを利用していた。自身も写真家であるアユムはそんなナギサを非難する。いつしか二人の距離は大きくなり、見えない溝が生まれていた…。それぞれの登場人物の視線の行く先から目を離すことのできない8分間。

 銀の縁に沿い、私は曇りなく見つめる。
 肯定も否定もせず、
 ありのまま、その姿を映し出す。
 私は残酷ではない。真実であるだけ ―

 あなたが近づいた時、私も水面に顔を浮かべる。
 そこにいるのはあなた自身だと語りかけながら。

これはナギサの個展会場の壁に書かれ、劇中でナギサとアユムがそれぞれに読む詩の一節である。この詩こそがタイトルの「Mirror」即ち「鏡」であるとようやく気付いた時にはすでに二人の距離は大きく離れていたのだが、“同性愛者の写真家”というイメージを利用してしまうナギサと、それを否定するアユム、どちらが正しいとか正しくないとかではなく、それぞれが互いを映し出す存在であるということがこの詩からわかる。どちらの面も、一人の人間がその中に矛盾を抱えながら持っている部分なのだ。そしてそれはまた、カメラの中のミラーを通して何を写すのかという問いかけにもなっている。
撮り続けるために世間が求めるものを撮るナギサの苦悩、それをわかっていながらも非難してしまうアユム。彼女たちがこれから何にどうカメラを向けていけばいいのか、様々な枠組みを押し付けられ、またそれを受け止めながらも、世界とどう向き合っていけばいいのか、私自身に問いかけられているようであった。


「女性映画監督」と一括りに語られること、そもそも『21世紀の女の子』のように「女の子」と一括りにされること自体、「女の子」という枠を押し付けられているようで拒否反応を示す人もいるかもしれない(かく言う私もその一人だった)。しかし実際にこの15人の監督による一作一作を見ていくと、その受け取り方や表現がまるで違うことに驚く。社会的にも世間的にも「女性」としてその役割を押し付けられる、引き受けてしまう女性である以前の、自由な「女の子」であること、あろうとすることを宣言する『21世紀の女の子』において、なかなか自由にはならない人間の複雑で面倒くさくて揺らいでいる部分を、甘えとしてではなく否定するのでもなく、それが一人の人間の中に存在しているものとして描いている作品があること、このテーマやこのタイトルの枠組みの中でそれぞれの監督がそれぞれの勝負をしているということに嬉しくなる。この映画の企画者である山戸監督をはじめ、今回取り上げた『ミューズ』の安川監督、『Mirror』の竹内監督、他にも目を離すことができなくなる映画の作り手たちに出会える場所でもあった。


『21世紀の女の子』
2/8(金)よりテアトル新宿、2/15(金)よりヒューマントラスト渋谷 ほか全国順次ロードショー
公式サイト:http://21st-century-girl.com/


©21世紀の女の子製作委員会(ABCライツビジネス、VAP)


鈴木里実
映画に対しては貪欲な雑食です。古今東西ジャンルを問わず何でも見たいですが、旧作邦画とアメリカ映画の比重が大きいのは自覚しています。