流行りに乗じた低予算のキラキラ青春映画の撮影現場で、主演俳優が「壁ドン」の演技に悩んでしまい撮影が中断、助監督の黒沢明は事態の収拾を命じられる。暴力の横行する過酷な現場でこき使われる中、黒沢はいつか自分が監督することを夢見て長年温めてきた「ゴーストマスター」という脚本が唯一の心の支えだったが、彼のあまりの情熱と鬱憤に脚本に怨念が宿り、主演俳優に取り憑いてしまう。
「究極の映画愛」をキャッチコピーに掲げ、低予算の撮影現場を舞台にホラーやコメディー、アクションの要素をないまぜにしつつ映画への愛と憎しみが表現された作品について、ヤング ポール監督にインタビューを行った。

映画という未知の世界との出会い

ーまずはヤング ポール監督ご自身について伺います。東京藝術大学大学院で映画を勉強されたのち、撮影現場での仕事をされる中でTCP(ツタヤ・クリエイターズ・プログラム)に『ゴーストマスター』の企画が入選されましたが、そもそも映画の道に進もうと思ったきっかけは何でしたか。

一言で、「この映画に出会ったからです!雷に撃たれました!」とでも言えれば良いのですが、僕はそんなことは無くて、少しずつ段階を踏んでいます。
子どもの頃、映画がどういう存在だったかというと、すごく怖い存在でした。僕は栃木県の田舎で育ったのですが、そこは雀がチュンチュン鳴いているような、平和でのほほんとした環境で(笑)。ある日たまたまBSで映画を観ていたら、それが旧東ドイツの暗い、大人の残酷な様子が描かれている映画だったんですが、子どもの時にそれを観て、僕の知っている世界じゃないものがあるんだな、と感じたんです。そこからある種の大人の世界、見てはいけないものがそこにあるような気持ちがして、気になっていたんです。
高校生になったとき、地元に映画館はなかったんですけど、レンタルビデオ店があって10本500円くらいで借りられて、時間があったのでたくさんレンタルしていました。そのあと大学進学の為に東京に出ましたが、そこで一番大きかったのが新文芸坐の存在でした。あそこで映画を観て、自分の知っている映画じゃない、こんな世界もあるんだなというのをすごく知ることができたんです。例えば、ある時東映やくざ映画特集で中島貞男監督の映画を上映していたんですが、その時はやくざ映画を観たことが無くて、「どうせ暴力的で粗悪で大量に作っているやつだろう」という何となくのイメージがあったんです。だけど観たことがないから行ってみよう、と。そしたら全くイメージと違った。もの凄く高い職人的技術でもって撮影も演出もなされていて、そして役者の芝居も松方弘樹さんをはじめギラついていてすごかった。かつ語られている内容も、商業ベースなのに、人生の悲しさだったり、人間の悲喜こもごもだったりが描かれている気がして、これはすごいな、と。映画は商業性の中にも芸術があって、それを両方できるメディアなんだというのを体験して、それが衝撃でした。新文芸坐をはじめ色んな映画館で映画を観ている中で、さらに好きになっていって。どうやって映画ができているんだろう、というところに興味が深まっていったんです。

ー実際に藝大で勉強して自分でも映画を作ろう、となったのはどういう経緯だったのでしょうか。

大学は日大の芸術学部で、そこでも映画を勉強していましたが、僕がいたのは所謂劇映画の演出・監督のコースではなくて、個人制作のコースでした。ドキュメンタリーとか、実験映画とかを作るようなコースだったんですけど、藝大に進みたいと思ったのは、同世代の人と劇映画の制作をやりながら映画のことを考えたいと思ったからです。それまでは自主映画というか、ある意味無理やり周りのみんなを誘って作るというような感じで、騙し騙しやっていたんですが、みんながやりたい、と言って人が集まってくるような場所で映画を作りたいというような気持ちで藝大に行きましたね。

映画を「続ける」ということ

ーその後、撮影現場での助監督などの仕事をされますが、そこで学校で学んだことと全く違ったことや、逆に学校で学んで覚えていることなどを教えてください。

そうですね…技術的なことは、学校で、というよりも正直のところ現場で覚えたという感じで、学校で学べたという気はあまりしないんです。ただ、藝大のときに師事していたのが黒沢清監督だったんですけど、覚えているのは「続けろ」という、そのスタンスですね。はっきりそう言われたことはないと思うんですが、「続けないと終わる」というのは黒沢さんを見ていて感じました。卒業したあとに思ったのは、「続けるのってこんなに大変なんだ」ということなんですが(笑)。

ーその「続けろ」というのは、映画を撮り続けることだったり、あるいは何らかで映画に関わり続けろ、ということだったのでしょうか。

「続けろ」と言ったのは、もしかしたら黒沢さんだけではなかったかもしれないです。黒沢さんに直接言われた記憶はあんまりないんですけど、ただ、思い返すと、学生の頃も卒業後も、僕の周りには才能のある奴がすごく多かった。というのは、「すごいなこの人、なんでこんなこと思いつくんだろう」とか、作る作品も人間的にも面白い人は本当に多かったんですけど、同時にやめていった人も多かったんですよね。ある人は大学を卒業した時に映画というところから離れたり、ある人は映画というものに興味が無くなったりーあとは職業として選んだ時に、業界としてやはり辛いんですよね。労働環境もそうですし、金銭的にも。続けたところで監督になれるかというのも、かなりわからない。すごく不安定な業界で、離れてしまう人もいる。最初のパッションというか、そういう気持ちが薄れてしまう人というのを本当にいっぱい見てきましたが、ただ、彼らは僕よりも明らかに才能があったんです。今思うのは、自分は才能があるからここにいる、というより、残ってしまった、という感じがすごくある。彼らを見ていると、自分に唯一何かがあるとしたら、「やめていない」という…やめてないから、今ここにいる、というのはあるかもしれない。僕よりはるかに才能があった彼らのことは、今でも思い出します。 

ー劇中でも、真菜(成海璃子)が「スクリーンの前に座っている人生か、カメラの前に立つ人生か、お前が決めろ」と自問自答する場面がありましたが、映画を見ているのは楽しいけれど、作る世界は厳しい、という考えはありましたか。

根本的には、映画を観て「すごい、どうやって作っているんだろう」というところが自分のスタートだったので、やはりそういう気持ちもあるとは思います。それと同時に、面白い映画を観ると悔しい気持ちもあるというか、「この映画はこんなに面白くできているのに、自分はできていないな、もっと面白いのを作ってやろう」とか、そういう気持ちもある。今、自分はぎりぎり業界の端っこの方にくっついていますけど、完全に離れたときに、嫉妬心というか、そういう何かがありそうな気がして、それがあるからまだ続けているというのはあるかもしれません。

ー劇中の撮影現場もすごくハードで、かつ「こんなところにいる時点で、私たちには才能なんてない」とまで言われてしまうものとして描かれていますが、監督が実際に経験した撮影現場の状況とも関係があるのでしょうか。

卒業して色んな仕事をしたんですけど、例えば低予算のVシネマの現場も縁あって助監督をやったことがあって、あの現場は結構参考になったというか…自分の体験として、この映画に入っている部分はあるかもしれません。というのは、劇中でスケジュールが34時、みたいな話があったと思いますが、あれは本当にあった話です(笑)。最終日のスケジュールが34時(注:朝10時)終了、ってそれはもう別日じゃん!というようなのもあって、うわぁと思ったり、というのはリアルにありました。それぐらいスケジュールも超パンパンで、かなりタイトで、ギャラの払いも遅い、というようなこともある中で、なんでこの人たちは続けられるんだろう、自分はずっといるのは無理だな、と思ったんです。でもそれはやっぱり映画が好きだからなんですよね。喋っていても、すごく映画に対する気持ちがあったりだとか、先輩はこういう人だったんだよ、というような話もあって。彼らがなんで業界にいるのかというと、映画が好きだから。好きだからこそやめられないというか、映画に対する愛と憎悪がある。愛があるから、憎悪に転じてしまっているところもあるし、憎悪というのは、愛がないと憎悪にはならない。何かそういうものを描きたいというのはありました。

ー劇中のカメラマン(森下能幸)も、周りのスタッフからは大ベテランの映画馬鹿だと思われていますが、最後には「映画に命賭ける価値なんてない」と吐き捨ててしまう。そういったところにも繋がっているのでしょうか。

でも彼も、「映画に命賭ける価値なんてない」と確かに言っていますが、だったらそこにいないはずなんですよね。本当に価値がないんだったら、多分カメラマンを辞めているんですよ(笑)。価値がないとは言っているけど、現に映画の現場にいる、ということが、多分彼の真実なんです。そういうことは今まですごく感じてきましたし、自分の実感としても「なんでこんなところ来ちゃったんだろう」みたいなものはありました。

「早く映画になりたい」脚本

ー「ゴーストマスター」に主人公が「早く映画になりたいだろ?」と呼びかけるところが面白かったのですが、脚本に込められた怨念が俳優に取り憑いて、クリーチャーと化してしまう、というのはどこから着想されたのでしょうか。

あれは脚本の楠野一郎さんのアイデアも結構あったと思います。楠野さんの目線で考えると、彼は脚本家なので、ホンをずっと書いている訳です。彼も実際に言っていたような気がするんですが、映画にならない映画、というのもありますよね。企画がポシャってしまうとか、脚本は書いたけど制作はされなかったとか…楠野さんはそういったものを最前線で見てきた人だから、きっと彼は、脚本からしたら、一日も早く映画になりたい!と思っていると、そう思ったんじゃないでしょうか。
「ゴーストマスター」に取り憑かれてしまう勇也(板垣瑞生)というキャラクターに関しては、映画を完成させるためにああいうことをしているというか、まあ色々よじれてはいるんですけど(笑)。そういうところが出ているのかと思います。

ー勇也は「ゴーストマスター」に取り憑かれてもなお、自分が出演するキラキラ映画を完成させようと、そのセリフを繰り返しているのが面白かったです。

勇也は本当に大好きというか…最高だったと思います(笑)。演じた板垣君自体も最高だったんですけど、勇也は単純な悪、モンスターではなくて、根っこには彼の真実というか、真面目さがあるような気がします。映画に対してすごく真面目というか、だからこそ、「壁ドンってなんですか!」とすごく悩んでしまう。すごく苦しんでいるんです。彼なりの真面目さに「ゴーストマスター」がくっついた結果、ああいうことになってしまうんです。彼なりに映画を完成させようとしているんですね。だから単純な悪いやつではない。自分なりの真実があって動いているというのが面白いなと思ったし、そこに俳優の板垣君の…本当に彼はいいやつなんですよね。彼のいいやつ感が相まって、憎めないキャラクターになったなと思います。

ホラー映画/キラキラ映画

ー「ゴーストマスター」に取り憑かれた勇也が、横暴な監督やプロデューサーを殺していくところは、彼らが成敗されているようで少しスカッとしてしまいました。ホラーのジャンルで人が死ぬ描写についてどうお考えでしょうか。

それは最高の見どころでしょう!(笑)ホラー映画は、人が死ぬところをみんな観にきていますよね。そこが工夫のしどころで、力のかけどころで…ただ、人が死ぬと言っても本当に人が死ぬところは撮れないし、多分それはものすごく地味なわけですよね。面白くないし、誰も求めていない。つまり、最大の嘘じゃないですか。現場では人は死なない。カメラのフレームの外側では、色んな人が集まって、変な体勢でモノを支えていたりとか、あんな間抜けな場所はないですよ。それなのに、映画になるとそれが怖い。怖かったり、人がキャーと叫んでしまったりする。僕はそのギャップがすごく面白いと思っていて、要は映画というものが作る嘘と、現実に起きていることのギャップこそが映画らしい、と。ホラー映画のそういうところは非常に好きです。どう嘘を真実のように見せるか、しかも真実をそのまま再現するんじゃなくて、真実を超えた嘘をついて、しかも真実よりも面白くする。そういうところが腕のかけどころで、ホラー映画はジャンルとしてすごく面白いんです。だから、ホラー映画を観ているとどうやって人を殺していくのか、どうやって表現しているのかというのをじっくり見ちゃいますね。

ー逆に、作中で全く異なる要素として描かれたキラキラ映画はいかがでしょうか。

キラキラ映画は…流石に数を作りすぎだろうという気持ちはあるんです。ただ、この映画においては全否定するつもりはなくて、キラキラ映画について皮肉をもって描いてはいますけど、そのキラキラ映画も最終的には肯定できる作りにはしたつもりです。ひとつのネタとして、みんなで消費して叩こうぜ、という映画にはしないようにしようとは思っていました。ただ…流石にちょっと…飽きてきたかな(笑)。もうちょっと色んなバリエーションの映画を作ろうよ、とは思っています。

ー『スペース・バンパイア』(監督:トビー・フーパー、1985年)の存在が作中でも語られていますが、その映画を知らない人もいる今現在に 作る映画で、過去の作品へオマージュやリスペクトを捧げることについてはどうお考えでしょうか。

これについては、主題歌を作った小出祐介さんと話していたときに、彼が言っていたことなんですけど、「ラップだよね」と。ラップって、色んな音楽のサンプリングをして、元ネタを使ってもう一回作るけど、別に元ネタの音楽を知らなくても全然問題なく楽しめるし、カッコいいじゃん、と。しかもその元ネタの使い方に工夫とアレンジがある。だから意外と元ネタを聞いてみると、ラップに使われた、リミックスされたものとは全然印象が違う。だからラップをみんな聴いているんだったら、元ネタを知らなくたってこの映画を楽しめると。それを聞いたとき、小出さんは面白いなと思いました。
元ネタを知らないから楽しめないというわけじゃなくて、かと言って元ネタを知っているから更に楽しめるというわけでもなくて、勿論この映画を観た後に、偶然参照した映画と出会った時に、これってあの映画だったのかな、と気づくこともあるだろうし、それはそれで楽しいですよね。元ネタは知らなくても楽しめるんじゃないかと思います。ラップと似ているというか…。

ー映画を観ていて、気づいた人はより楽しめるかもしれませんね。

それがご褒美的というか、そういう楽しみ方もありますよね。それはこの映画だけじゃなくて、どんな映画でも、これは明らかにあのシーンを参照しているな、ということは結構ありますし、それ自体は普通のことかなと思います。全くのオリジナルというのはなかなかないし、組み合わせですよね。

フィクションを生む撮影現場というドキュメンタリー

ーラストについて伺います。最後に主人公が見せるものは、映画なのか、走馬灯なのか…あれは一体何だとお考えですか。 

あれは何ですかねぇ…。あえて言うなら、そのものが何かというよりも、あれはある種彼らが生きていた証というか、確かにそこにいて、格闘していたものがそこにはあったんだよ、というのを見せたいな、と思ったんです。一般論として、劇映画は勿論フィクションなんですけど、一方で、撮影現場で人々が集まってこういうことをしたよ、という結果があの画面なので、実はドキュメンタリーとも言えるわけです。そういう感覚というか、彼らは、というより映画を撮影した僕らが、そこに生きていて、そこで何かをした結果が映画になっている、という映画撮影の感覚をあそこで見せられたらいいな、と。死んでいった彼らも、確かに生きていたんだよ、というものを映画という存在で肯定できないかな、という思いがありましたね。

ー映画撮影の現場がドキュメンタリーである、というのは、やはり監督ご自身が撮影現場で仕事をされる中で実感として感じてきたことなのでしょうか。

そうですね。フィクションですけど、やっていることはフィクションじゃないのでーー例えば何かモノをひとつ画面に用意するのだって、誰かが発注するなり探してくるなりして持ってこないとそこにはないわけですよね。そのものがそこにある、というのがある意味ドキュメンタリーであるというか…そういうドキュメンタリー的なものの寄せ集めが、フィクションとして見られているという、映画のそういう関係は面白いな、と撮影しながら個人的には考えています。

ー真菜が画面を叩き割るという映画のラストシーンについて、なぜあのエンディングにしたのか、監督ご自身の考えを聞かせてください。

あのシーンがどういう解釈であるとか、どういう意味を持っているか、というのは観ている人に決めてもらいたいなとは思っています。ただ、今回の映画のテーマとしては、映画に対する純粋な愛ではなくて、愛憎だと思っていて、その割り切れなさ、やり切れなさや、色んなものがぐちゃぐちゃに混ざり合ったカオスーー実際に映画の中では、つぎはぎという言葉もありましたけどーそれを表現するべきだと思いました。だから、ある一つのわかりやすい意味としてこれはこういうものなんです、というのではなく、観る人によって違うし、一言では言い表せない何かが混じったものを画面に叩きつけられないかな、という思いはありました。
あのシーンに関しては、楠野さんが書いたト書きとは違った解釈で僕も撮影しているし、実際に演じた成海さんにも、僕が言ったことをそのままやるのではなくて、彼女なりの解釈でやってほしいと思っていました。そういったラストになっていると思います。
あそこはぜひ劇場で体感してほしいです。音響的にも画面的にも、映画館で見てもらいたいな、と本当に思います。

ー脚本家の楠野一郎さんの書いた脚本から、ヤングポール監督はじめとしたスタッフの方の現場での撮影で『ゴーストマスター』が作られていきましたが、映画を作ることにおいて、脚本を書くことと、撮影現場で映画を撮ることはどう違うと思いますか。

脚本は依り代だと思うんですよね。みんなが集まって話をする口実というかーー具体的には、脚本に書いてあることをそのまま成立させるのではなくて、書いてあることからどう膨らませていくかがやっぱり楽しいところで、だから演技も含めて、いい意味で思っていたものと違うもの、誰もが想像しているよりも面白いものになれば、撮影していても面白いと思うし、それが多ければ多いほど映画が豊かになる気がしています。だから、脚本に忠実に撮れば良いのではなくて、そこからいかに自分の解釈であったりとか、どう膨らませていくかが重要ですよね。
今回は本当に、全スタッフみんな経験も才能も物凄くある方たちで、良い意味で自分が思っている以上に、予想よりもずっと遠くに映画が行けたような気がします。それは本当に、脚本からスタートしたところに、みんなが手形を残してくれていたんじゃないかと思っています。
撮影するときにも、スタッフに「みなさんがこれをやった、という手形を作品に残してください」というようにみんなに言っていて、それが良い形で、映画にぎゅっと凝縮されているのではないかと自分では思います。

ーお話を聞いていて、先ほど仰っていたように、撮影現場での共同作業にはドキュメンタリー的な側面があるのだろうと感じました。

映画は人間関係の結果だと思っていて、例えばカメラマンと話したやりとりの結果、役者と話したやりとりの結果、色んな人と話して、その結果が画面に出てくる。そういう人間関係の結果ですよね。やっぱりそこにあるのは、ある種の実際にあった出来事のドキュメントだと思います。

ー最後に、『ゴーストマスター』劇場公開に向けた意気込みを教えてください。

『ゴーストマスター』は、ホラー映画の括りではあるんですけど、コメディーでもあり、SFのようなところもあり…一方で青春映画でもあり、色んな要素を持った映画だと思います。そういった中から、何か楽しんでもらえるところを探してもらえたらすごく嬉しいなと思います。
一方で、この映画は抑圧された人たちの物語というか、ある撮影現場で、辛い、大変な目に遭っている人たちが、映画の撮影という行為を通して輝きを取り戻そうとする格闘の記録でもあるので、そういうところも同時に楽しんでもらえたら嬉しいです。

劇中でも、ある人物に対して「本当に映画が好きなんですね」というセリフがあるが、映画業界のハードさと同時に撮影現場での共同作業の持つ魅力を語るヤング ポール監督に対して、私自身も同じことを思ってしまった。ただ、監督も言うように、ただの「好き」ではおさまることのできない色々な感情がきっとその奥にあり、『ゴーストマスター』はその愛憎がストレートに込められた映画で、言葉だけでは言い表すことのできないそれらが強烈なエネルギーとなっている。そのエネルギーを、ぜひスクリーンで浴びてみてほしい。

『ゴーストマスター』
12月6日(金)新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー

出演:三浦貴大  成海璃子
板垣瑞生 永尾まりや 原嶋元久 寺中寿之 篠原信一
川瀬陽太 柴本幸 森下能幸 手塚とおる 麿赤兒

監督:ヤング ポール 
脚本:楠野一郎 ヤング ポール 
 
製作:中西一雄 共同製作:根本浩史 
プロデューサー:遠山大輔 厨子健介 木滝和幸 
アソシエイトプロデューサー:可野修平 
ラインプロデューサー:西田敬 音楽:渡邊琢磨
撮影:戸田義久 照明:中村晋平 録音:臼井勝 美術:佐々木記貴 編集:洲﨑千恵子 
効果:伊藤克己 整音:星一郎 特殊スタイリスト:百武朋 VFX監督:國米修市
助監督:瀬戸慎吾 斉藤博士 スタイリスト:小磯和代 ヘアメイク:須見有樹子 
制作担当:木村和弘 スチール:古矢優 宣伝プロデューサー:小口心平

制作プロダクション:セディックインターナショナル マグネタイズ 
制作協力:広尾メディアスタジオ 
製作:カルチュア・エンタテインメント TSUTAYA Digital Entertainment 
配給:S・D・P
2019年/日本/カラー/シネマスコープ/R-15マーク

©2019「ゴーストマスター」製作委員会 
公式サイト

吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。大学は卒業したけれど英語と映画は勉強中。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感じが好きです。