今回紹介するのは日本映画スプラッシュから、『どうしようもない僕のちっぽけな世界は、』。児童虐待の問題を父親である男の目線から描いた作品だ。

 

娘のひいろは、児童相談所から脳の損傷を指摘され、養護施設で過ごしている。
男は、家を出たかと思えば行く先は風俗かATM、自分の母親に仕送りを催促し、無気力な生活を送っている。しかし、児童相談所からの濡れ衣で引き離されたという娘にだけは定期的に会いに行っている。
一方ひいろの母親は、遊び暮らすばかりでひいろと会いに行くこともしない。
そんな中、童相談所からの提案で、条件付きでひいろを引き取ることになる。男は仕事をはじめ、責任をもって娘を育てようとするが…。

 

日常の生活感あふれる描写により、児童虐待という問題がより身近に描きだされていく。
男は我々と同じように、虐待なんてテレビニュースの向こう側の世界のことだと思い、虐待には断固反対だ。まして自分が虐待をしたなどと疑いをかけられ、娘と引き離されたことに激しい憤りを感じている。
だが、男が娘との接し方に戸惑う様子は、そんな我々に対して、そういった問題が決して遠い出来事ではないということ、決して理解できないことではないということを教えてくれる。

 

子どもができることと親になることは別のことである。この映画で強調されるのは、人がこれから親になれるかどうかとは関係なく、人の欲望だけでも自然に子供は生まれてくるということだ。
しかし、現実ではいったん子供ができれば、当然のように理想の親になることが要求される。だが、親になるというのはそもそもどのようなことなのか。多くの人が、理想の家族の形というのがいつの間にか存在しているかのように考えている。しかし実際は、理想の形が見えず、閉ざされた家庭空間の中で、自分に要求されている「正しさ」が何であるかもわからないのではないか。社会からの要求や理想に従えないことなど誰にでも起こりうることなのだ。

親になるということは特別なことだろう。これまで自分のものであったはずの人生の時間を人のために使わなければならない。これは決して「当たり前でないこと」だが、しかし「なされるべきこと」でもある。

 

この映画は虐待の加害者目線で描かれた映画でありながら、予期せず親になってしまった親たちの無責任さを肯定する映画ではない。大人にどのような事情があろうとも、子供がその犠牲にされてはいけない。どのような親の元に生まれるかはたしかに「運」かもしれない。しかしこの映画は「不運」を認めず、あくまで未来を強調する。虐待は連鎖するということが多いが、この映画の中で運命的な連鎖は描かれない。

もともと「親」などおらず、家族の形などないからこそ、それは自分たちで作っていかなくてはならない。どうしようもない彼の世界は変えることができるのだろうか。

 

会期中の上映は11/03(日)17:30- の1回のみとなっている。

≪作品情報≫
2019年/カラー/87分/日本
監督・脚本  倉本朋幸
プロデューサー 徳原重之/吉田充希
キャスト    郭智博/吉田結凪/和希沙也 ほか

 

<p>小野花菜
現在文学部に在籍している大学2年生です。趣味は映画と海外ドラマ、知らない街を歩くこと。