「あっち、カリフォルニアなんだって」。柵の向こう側を透かし見ながら、主人公のサクラ(韓英恵)はいう。この映画の舞台である神奈川県大和市には厚木基地がある。オープニング・クレジットにおいて映し出される有刺鉄線は、サクラがカリフォルニアと呼ぶ領域と、大和市との境界線である。サクラの言葉、そしてタイトルに付された『大和(カリフォルニア)』は、「厚木基地はカリフォルニア州に属する」という都市伝説に由来する[1]。

厚木基地は、隣接する綾瀬市と海老名市にまたがって約507ヘクタールもの広さを有する基地である。しかし大和市出身の宮崎監督が語るように、米兵が横須賀や沖縄のように街へと繰り出してくることはなく、基地と市民とのコミュニケーションはもっぱらその航空機が発する騒音だけであったという[2]。

柵の向こう側、近いようで遠くにあるアメリカ。こうした大和市住民の日常の実感こそが作品の重要なテーマになっている。映画内において基地問題は直接的に描かれることはない。しかし、食卓での会話は幾度となく航空機の騒音でかき消され、シーンとシーンのあいだには幾度となく航空機のカットが挿入される。宮崎は、航空機のイメージやその音の反復によってアメリカという存在を浮かび上がらせ、同時に、この姿の見えないアメリカが、住民の日常生活へと内面化されていることを暴き出すのである。それはまた、アメリカの大統領が空港からではなく横田基地から来日してさえいかなる批判も噴出しない日本社会において、日米地位協定を当然のこととして受容する人民の姿にも重なるだろう。

 

映画の序盤においてサクラは、路上で行われていたサイファーに飛び入りで参加するも、うまくラップをすることができずに言葉を詰まらせてしまう。こうした不完全で不安定な存在としてのサクラ=日本[3]の姿は、映画の冒頭から示されている。手持ちキャメラの長回しによって映し出されるのは、廃品やガラクタが雑多に積み上がった集積所であり、そこは狭く古いアパートで兄と共同の部屋を使用して生活するサクラにとっての安息の場である。サクラは家を抜け出してはそこに行き、リリックを認めたりラップを練習したりして過ごしている。このショットにおいて観者は、廃品の山に紛れて風に揺れる日本国旗が、不安定に突き刺さっているのに気づくことだろう。宮崎は、日本と韓国という二つのルーツをもつ存在としてある韓英恵を主人公に起用し、ラッパーを目指しているにもかかわらずいまだ自身を語る言葉さえ持たない主人公を描きながら、日本の不安定な現状を告発し可視化する。

 

航空機の音も日常化してしまえば問題ではないかもしれない。しかしそれに疑義を投げかけ、直面し、思考し、抵抗しなければ何も変わることはない。細部にはそうした問いかけが複数存在しており、われわれ観者はそれに対して思考せざるを得なくなる。酒井隆史は、著書『暴力の哲学』においてキング牧師を取り上げながら「敵対性」の重要性について語るが、サクラに変化が訪れるのはまさしく敵対性によってである。

サクラの変化は、母の恋人の娘であり、アメリカと日本という二つのルーツを持つレイ(遠藤新菜)との喧嘩がきっかけとなる。サクラとレイが、サクラの隠れ処で酒を酌み交わすシーン、酩酊したレイはサクラに即興でのラップを強要するが、サクラはそれを拒否する。レイは、ラップを披露しないサクラに対して、「披露しないのはラップができないからだ」という。

 

レイ「ラップがやりたいんじゃなくてアメリカ人の真似がしたいだけなんじゃないの?」

サクラ「ヒップホップはコピーじゃなくてサンプリング、そんなことすら知らないお嬢ちゃん、いちいち口出しすんじゃねえ。いつまでもお前らが正しいと思ってんなよ」

レイ「そいつらのコピーばっかしてんのは誰?そいつらがいないと生きていけなのは誰なの?チャイナやコリアがコピーだっていうけど、一番最初に私たちをコピーしたのは誰なの?」

 

このもっとも印象的な二人のシーンにおいて、レイはサクラに問いを投げかけるが、これによってサクラは自分自身と向き合うことを強いられる。敵対性とは、波風を立たせ問題を認識させることで、それに対決せざるを得ないような緊張をつくりだすことである[4]。レイとの喧嘩を宥める母に「うちの家族のことを利用してるだけ」と返すサクラの言葉には、まさしく現在の日本の状況が暗示されているのではないだろうか。サクラは、怒りによって構築された敵対性によって、語る言葉を獲得していく。そうしたサクラの怒りの発露としてラップがあるのだった。

 

また基地問題以外にも、貧困やレイシズムの問題など、さまざまなテーマが同時に描かれている。たとえば、サクラ演じる韓英恵とレイ演じる遠藤新菜はともにミックスルーツを持つが、それはサクラが語るヒップホップにおけるサンプリングの問いとあい重なるだろう。しかし、はたして複数のルーツを持たない人間など存在するのだろうか?「コピーとサンプリング」の問いのうちには、国籍や人種というものの絶対性を揺るがすモチーフが描かれているのではないだろうか。

 

 

4月7日(土)より新宿K’s cinemaほか全国順次ロードショー

 

『大和(カリフォルニア)』

(2016/日本・アメリカ/119分)

監督・脚本:宮崎大祐

プロデューサー:伊達浩太朗、宮崎大祐

撮影:芦澤明子(J.S.C.)

照明:小林誠

美術:高嶋悠

編集:平田竜馬

音響:黄永昌

サウンド・デザイン:森永泰弘

助監督:堀江貴大

制作主任:湯澤靖典

製作:DEEP END PICTURES INC.

配給:boid

公式Webページhttp://yamato-california.com/

 

 

[1]『大和(カリフォルニア)』公式Webページ(http://yamato-california.com/)。

[2]上記同ページ。

[3]新渡戸稲造『武士道』の序文にも記されているように、桜は日本の象徴として機能する花である。桜のシンボルは自衛隊の階級章に使用され、また自衛隊旗をはじめとして内閣総理大臣旗や防衛大臣旗にも使用されている(http://www.gutenberg.org/files/12096/12096-h/12096-h.htm)。

[4]酒井隆史『暴力の哲学』河出書房文庫、二〇一六年、四二頁。

 

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。趣味は寝ること、最近よく聴くフォーク・デュオはラッキーオールドサン。