父と弟のニコと暮らすビリーは、自身の名前の由来でもある歌手ビリー・ホリデイへの憧れを抱きながら、愛情深いものの飲酒のトラブルが絶えない父親を支える生活を送っていた。やがてビリーとニコは母親の元へ身を寄せるが、そこでも交際相手からの暴力に遭う。二人は出会った少年マリクに助けられ、彼らは子どもだけの逃避行の旅に出る。
アメリカ・インディーズ映画の作家として『イン・ザ・スープ』(1992)などで知られるアレクサンダー・ロックウェルの新作『スウィート・シング』が現在公開されている。
昨年の東京国際映画祭では『愛しい存在』のタイトルで上映されたこの作品は、監督の実の娘と息子を主演に据え、周囲の大人たちによって困難な状況に直面する姉弟の逃避行の物語を16㎜フィルムの撮影によるモノクロとパートカラーの映像で詩的に描いている。
本作の公開に先立ち、監督のアレクサンダー・ロックウェルと、主役のビリーを演じたラナ・ロックウェルの父子にインタビューに応じてもらった。

子どものもつ「共感する力」という作品のきっかけ

この作品についてロックウェルは、ステイトメントや多くのインタビューでも「とてもパーソナルな映画」だと語っている。主役のビリーとニコの姉弟を、監督の実の娘ラナと息子のニコが演じていることは、この作品の一番の大きな特色といえるだろう。母親役を演じた女優のカリン・パーソンズはロックウェルの妻、二人の母である。撮影クルーは大学の映画学科で自身が指導する学生たちで構成されたという。(なお、ロックウェルは2013年の日本未公開作『Little Feet』でも二人の子どもを主役に映画を作っている。)
『スウィート・シング』の物語においてラナとニコは本来頼るべき立場にある大人たちの振る舞いによって追い詰められ、困難な状況に直面する。その一方で、その中にあっても傷つくことのない二人のエネルギーがはっきりと魅力的に捉えられていて、それは彼らのどんな表情をいかに撮るべきか、近くで見て知っているかのような眼差しを感じる。
ロックウェルによると、「自分の子どもたちと映画を撮りたい」というのがこの映画の第一のきっかけだったという。自身の子どもたちを被写体にしたいと思った理由を次のように語っている。
「何よりもラナには人の気持ちに寄り添って共感する力があるので、きっとそれにキャプチャーすることができるだろうという自信がありました。もちろん、ストーリー自体はラナたちの人生をなぞったようなものではなく、全く違った境遇です。物語の中では、アルコール依存症の親を持つとはどういうことなのかとか、子どもが虐待されるとはどういうことなのかとか、そういうことを描いているつもりではあります。幸いうちは妻ともうまくやっているので(笑)、二人の子どもはビリーたちとは全然違う環境にいるわけなんですが、それでも状況を察して共感する力みたいなものが出てくるだろうと思ったんです。かつ、ラナの弟のニコはラナのことをすごく尊敬しているので、ラナがきっとこのキャスティングをリードしてくれるだろうという自信もありました。非常に暗くて酷い状況の中を生きなくてはならない子どもたちの話ではあるんですけれども、それでも最後はこの子たちが光を灯してくれるだろうと信じていたんです。」

監督のアレクサンダー・ロックウェル、主演のラナ

「自分のヒーローであり、でもしばしば失望させられる」父親について

姉弟の父親は、ビリーとニコに愛情を注いでくれる大切な存在である一方で、彼らを守ることができない。(父親アダムを演じるウィル・パットンは『イン・ザ・スープ』にも出演している監督の長年の友人であり、本作のエグゼクティブ・プロデューサーにも名前を連ねている。)
そのキャラクターについて尋ねると、ロックウェルは「僕自身も父親がアルコール依存症だったんですよね。あの感じはとてもよくわかります」と明かした。「父親は自分のヒーローであり、でもしばしば自分の父親に失望させられる、というような幼少期を僕は送ったんです。ただ、そういったアルコール依存症の親がどういった感じなのかという真実をちゃんと捉えられている映画はあんまりないと思うので、それがこの作品の一つの試みでした。」
クリスマスに母親を誘い、家族4人でレストランへ食事に行こうという計画が散々に終わった夜、酒に酔った父親は、抵抗するビリーの自慢の髪の毛を無理矢理切ってしまう。父親がビリーとニコに対して愛情だけではなく危害や悲しみをもたらす存在でもあるということがはっきりと描かれるシーンでもあるが、ロックウェルはその撮影の経緯をこのように語った。
「演じるウィル・パットンにとっては辛いシーンだったようで、脚本を読んでくれてから、全く文句は無いんだけどこのシーンだけはやりたくない、と言っていたので説得が必要だったんです。僕はこのように説明しました。“君は娘を守ろうとしているんだ。髪の毛を切ることによって、色んな痛みや起こりうる悪事から娘を守るんだという願いを込めているんだ”と。でも、切りながらも父親は自分にすごく自己嫌悪を感じているんですけどね。ただ、そういうことを表現しているシーンなんだとウィルには説明しました。そうしたら、彼は非常に勇敢な俳優だと思います──僕の話を聞いてOKしてくれて、ラナもOKしてくれたので、二人で真剣勝負をやってくれました。ラナとウィルはお互いのことを信頼しきってくれていたので、撮影は非常に小さい部屋の中でやっていたんですけど、その時の緊張感で部屋中にエネルギーが充満していて、シーンの最後にニコが部屋の中に入ってきてビリーを抱きしめるんですが、我ながらとても決定的なシーンになったな、と思いました。何が描きたかったのかというと、大人の過酷な世界と、子どもの世界の持つ希望とポエトリー、この二つを対照的に比較させたかったんです。」
ロックウェルが「映画の軸になった」と語るこの場面について、ラナは「映画のひとつの転換点だ」と捉えている。
このシーン以外にも、劇中、ラナとニコは泥酔した父親や、交際相手からの理不尽な暴力を受け入れて従ってしまう母親といった、(子どもたちの視点に寄り添う観客の立場から見れば)愚かな大人の姿を目の当たりにする。それらの場面の多くで二人は無言で大人たちの振る舞いを見つめているが、その眼差しは物言わぬものの彼らの心情を十分に訴えているように思われる。その演技について尋ねると、ラナは
「とにかく私が意識したのは、今はこういう状況だよ、というのを父が語り聞かせてくれたので、それをひたすら意識しながら、その場面を損なうことのないよう演じていました。恐らくビリーは、状況にいちいち何か反応することはなく、ひたすらじっと観察している、何よりも自分自身と弟を守ることを大事にしている子なので、そういう気持ちや意識を心の中に潜ませてじっとしていました。意識したのはそういったことだったのですが、現場では父が今はこういう場面なんだよという雰囲気を作ってくれたので、それはすごく助かりました。」と振り返った。
なお、ロックウェル自身はこれらの場面について、「ビリーとニコはこの有り様の証人」だと考えているという。「観客は彼女たちの目を通してこのストーリーにエンゲージメントされるんです。彼女たちが呼吸するのと一緒に観客も呼吸するような、ビリーたちが心の内で感じていることを観客も感じるシーンになっていると思います。」

ちなみに、劇中のビリーと父親の関係については、ビリー・ホリデイという映画の重要なモチーフにも表れている。
ビリーは自らの名前の由来でもある歌手ビリー・ホリデイを慕い、心の支えとしている。彼女が抱くビリー・ホリデイへの憧れは夢想となって画面にも現れるが、その存在を映画に用いた理由について尋ねるとロックウェルは「ラナ自身がとても音楽性に溢れている子なので、それを活かしたかった」とした上でこのように語っている。
「アイデアとしては、ウィル・パットン演じる父親が、自分の中にある最良のものを娘にギフトとして与えるなら何だろうと考えると、やっぱり音楽を愛する心なんですね。ウクレレをプレゼントしたり、ビリーと名付けたりするのは、自分の一番いいところを娘に託したいという気持ちの表れなんです。音楽に対する希望の心を託しているつもりなんだと思います。劇中でも、声は賛否両論だけどビリーの父親の大好きな歌手だと言いますよね。ビリー・ホリデイのように歌える歌手は誰一人としていない。そのように、ビリーにとって、自分の価値はどこにあるのかということを見出す意識を与えてくれているんです。」

「大人にとってある種のヒーリング」であるエンディング

子どもたちの逃避行は、偶然出会ったトレーラーハウスで暮らす夫妻の歓迎を受け、急展開を迎える。突然悪い夢が覚めたかのようにビリーとニコの逃避行の旅は終わり、父親との生活を取り戻すが、映画の結末について尋ねるとロックウェルはこのように語った。
「子どもたちが旅立ちました、もう戻ってきませんでした…という話にはしたくなかったんです。大人にとってのある種のヒーリング的な結末にしたかったというか、ラストで二人の両親が見つめあうところは何か可能性を感じさせる場面にしたかった。それと、ニコは学校でガールフレンドを取り戻したりしますよね(笑)。そういう一筋の希望と共にあるエンディングにしたかった。悲劇にはしたくなかったんです。」
その一方で、「そういうエンディングになったのは、もちろん僕がそうしようと思ったからなんですが、ただ、子どもが言っていることにちゃんと耳を傾ければ、必ず物事は何か改善していくという可能性を僕は信じているので、心底僕が信念として感じていることを映画にしているつもりです。結末から一つのヒーリング的な可能性を感じ取ってほしいです。」とも語っている。

現在、ニューヨーク大学大学院ティッシュ芸術学部映画学科にて監督コース長を務めるロックウェルは、映画を作りたいという若者たちへの指導にもあたっている。最後に、学生に映画について指導するときに大切だと考えていることは何かと尋ねるとこのように応じてくれた。
「僕は映画が大好きなので、大好きなものを教えるとみんなついてきてくれるんですよね。聞く方も夢中になってくれるんです。昔からいつも、映画は本当に素晴らしい芸術の形だと思っていて…動きでストーリーを語ってゆくというところが素晴らしいと思います。自分にとっては音楽にも似ていて──だからラナが音楽を好きなのも、そういう意味では当たり前かもしれません(笑)。いつも学生に語り聞かせているのは、頭の部分──思考であったり知性であったりというものが身の助けになることはあるにしても、何を軸にして作らなければならないかというと、エモーションなんですね。感情の赴く方向に映画を作れと言っています。頭で理解する映画ではなくて、心で理解する映画を作れという言葉でいつも学生たちに教えようとしています。」

本当のところ『スウィート・シング』を初めて観たとき、美しいパートカラーの映像や主人公たちの存在感にすっかり魅了された一方で、どこか不思議な映画だと感じた。危機や困難にさらされながらも決してそれに負けることはない、主役の子どもたちのエネルギーや感情が尊いものとして鮮やかに捉えられている。心の純粋なところではどうしてこんなに美しいのだろう?と思いながら、同時に何か際どいものをみてしまっているのではないか、と感じてしまったのは、あまりに過酷な状況にある子どもたちの物語を紡いでいるのにこんなにも美しく撮れているのは何故なのだろうかという疑問でもあった。本当に魔法にかかっているかのように不思議な魅力を放つ映画というのが作品への最初の印象だったが、「頭で理解する映画ではなくて、心で理解する映画」という言葉は恐らくロックウェルがこの映画を作ったひとつの原動力を表しているだけでなく、この映画に触れる人々が、その魅力を捉え直すことのできるもののように感じた。理不尽な運命を必死に生きてゆく主人公たちのエネルギーや、彼女たちが心の中で抱き続ける希望といったものの美しさがこの映画を唯一無二のものにしているように、私たちは本当はもっと自由なのだ、と言われているようだった。

『スウィート・シング』
原題:Sweet Thing|2020年|アメリカ映画|91分|DCP|モノクロ+パートカラー
監督・脚本:アレクサンダー・ロックウェル 
出演:ラナ・ロックウェル、ニコ・ロックウェル、ウィル・パットン、カリン・パーソンズ
日本語字幕:高内朝子 
配給:ムヴィオラ
10月29日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺他全国順次公開
公式サイト

画像は全て©2019 BLACK HORSE PRODUCTIONS. ALL RIGHTS RESERVED

*作品関連情報*
アレクサンダー・ロックウェル監督代表作『イン・ザ・スープ』限定上映!
『スウィート・シング』公開記念特別上映として、アレクサンダー・ロックウェル監督によるU.S.インディーズ史に残る愛すべき傑作が35mmフィルムで復活。
新宿シネマカリテにて1週間限定、10/29(⾦)〜11/4(⽊)まで、連日17時10分より上映されています。
ほか全国にて上映予定あり。詳細及び全国の上映館情報は『スウィート・シング』公式HPにて

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吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感じが好きです。