スタニスワフ・レム好きのなかでも「難解」「歯が立たない」といわれる『天の声』。異なる文明・文化をもつ者同士が初めて出会う、いわゆるファーストコンタクトものの部類に入るSF作品だ。ポーランド語独自の表現にあふれるレムの文学はそもそも他言語へ翻訳すること自体が非常にむずかしいとされるうえに、本作では数学から物理学、哲学、サイバネティクス(人工頭脳学)とIQ180の天才・レムの思想が容赦なく降りそそぐ。凡人の脳にはかみ応えがありすぎて咀嚼することを諦めてしまいたくなるほどの難物である。

 

その怪作の映像化に挑んだ作品が東京国際映画祭で公開された『ヒズ・マスターズ・ヴォイス』だ。監督は『ハックル』『タクシデルミア』で知られるハンガリーの異才パールフィ・ジョルジ。きわめて観念的な原作に、アメリカ政府による陰謀論、失踪した父を探す兄弟の旅を絡め、エンターテインメント性が高く誰もが楽しめるSF映画を創りだした。

 

数あるスタニスワフ・レム小説からなぜこの作品を選んだのかについて、監督は「原作は、科学者が結果を見いだせないままにただ実験を繰り返すさまを描いた数学者の日記形式でつづられ、劇的なことは何も起こらない。脚色するのがほぼ不可能といっていい小説だからこそ、あえて挑戦してみたかった」と意欲を語る。脚本をつくっていく過程で主眼に置いたのは、この観念のかたまりのような物語をいかにして自分たちと関連づけるかということだったという。そこで浮かんだのが、主人公に兄弟を据え、原作の思想と哲学をひたすら追求していく過程を、失踪した父の数学者を探す二人の旅に重ね合わせるというアイデアだった。

 

ハンガリーに母と住む兄弟のうち、弟は車椅子生活を送っている。兄弟は二人が幼いころに失踪した父親の行方をずっと追い求めてきた。とりわけ外界と接触の少ない弟は、ネットにあふれる宇宙研究をめぐるアメリカの陰謀論に取り憑かれており、数学者であった父親はそれに巻き込まれたと信じて疑わない。ガールフレンドとアメリカ旅行に出かけた兄は、弟の気持ちをくみ、そこまで乗り気でないまでも父親探しに着手するが、父親の痕跡に触れて次第にディープな世界へのめり込んでいく。

監督のバールフィ・ジョルジとともに脚本を担当したルットカイ・ジョーフィアによれば、『ヒズ・マスターズ・ヴォイス』は、人間とは何なのか、どこへ向かっていくのかという疑問に取り組んだ作品でもあるという。監督とは『フリーフォール』『タクシデルミア』でもタッグを組んだ彼女は、「チームが挑んできたのは、我々人間を人間たらしめるものは何なのか、神や動物、あるいは別の文明と我々の違いは何なのかといった問いへの答え」と語る。チームが導き出す解は作品によって異なっているそうだ。作品のつくられた時々の状況や環境が影響を与えているとのことで、そういった観点から一連の作品を観てみると、監督とそのチームの作家性が見えてきていっそう楽しめるのではないだろうか。

 

本作では、あからさまなもの、暗喩的なものを含めてさまざまな「シンボル」が登場する。そこには映画をつくるうえで監督が語りたいメッセージ、物語を暗示するものが感じられ、観る者の好奇心をを刺激してやまない。そのひとつの「ウロボロス」の意味を尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。「我々は繰り返し円を描くようにめぐりめぐって生きている。何か事に当たるときには新たな方向性を見いだすというより、方法を変えたりレベルを変えてもう一度やってみるしかないということを意味している。そしてまた、無限、永遠という観念は、親子の設定にも生きている。長男のペーターは父の肉体的な遺伝を引き継ぐという役割を意識した。子孫を残すことのできない弟のほうは、父の哲学だとか概念や思考を人類にもたらすという対照で描いている」。

 

足かけ5年にわたった制作では、ビジュアル面でも工夫を重ねたという。監督が最も注力したのが、宇宙船のデザイン。「キューブリックっぽいとか、ジョージ・ルーカスっぽいというのではなく、ほかでは見たことのないような斬新なものにしたかった」というそのフォルムは確かにとてもユニークだ。形だけではなく、理論面でのこだわりもある。この宇宙船は巨大なエネルギーを備えているのだが、では、実際にそのエネルギーはどうやって産出され、放出されるのか。着想となったのは、虫眼鏡だという。子どもがレンズで太陽光を集めて何かを燃やしたりして遊んでいるさまにヒントを得て、それと同じ原理を宇宙船に用いたそうだ。一見、凝ったデザインの宇宙船に見えるが、あとの展開で実はものすごい力を持ったものだということがわかる。『ヒズ・マスターズ・ヴォイス』はそうした発見が楽しい作品でもある。

 

主役のピーターを演じたポルガール・チャバは、作品についてまず「何層も重なっている映画なので、全体を把握するのに時間がかかった」としながら、「内容を消化したら、これはとても面白いという印象を受けた。何か物事が動き出すが、急に方向転換し、その方向転換された線がまた元に戻って一点に集約される。そこからまた拡散していく感覚が刺激的だった」と語る。演じるにあたっては、豊かなビジュアル面につられて自分の想像が走ってしまうこともあったそうだ。「そのときは自分で自分を止めた。どのような映像にしたいかというイメージは、当然ながら撮影監督と監督の頭のなかにある。彼らの指示に従うのがベスト」と監督と作品への完璧な理解をもって臨んだことを明らかにしている。

 

次作は同じくスタニスワフ・レムの短編小説をベースに、宇宙船にたった一人乗った男をVRを用いた手法で描くことを考えているというジョルジ監督。なんとも垂涎の設定だが、まずはこの『ヒズ・マスターズ・ヴォイス』が日本で一般公開され、その驚きに満ちた奇想天外な世界をスクリーンで楽しめることを願う。

◆作品情報『ヒズ・マスターズ・ヴォイス(原題:His Master’s Voice)』

監督: パールフィ・ジョルジ [Pálfi György]

キャスト:ポルガール・チャバ、エリック・ピーターソン、キシュ・ディアーナ

108分/カラー/英語、ハンガリー語/英語・日本語字幕/2018年/ハンガリー、カナダ

小島ともみ
80%ぐらいが映画で、10%はミステリ小説、あとの10%はUKロックでできています。ホラー・スプラッター・スラッシャー映画大好きですが、お化け屋敷は入れません。