「摩文仁の資料館は、戦争の混沌をある程度表現できているがゆえに、戦争が表現不可能なものだと分かる。全ての本や映画同様、戦場の匂いが欠けている。
トーキー映画のように匂いつき映画が発明されない限り、本当の戦争映画は存在しないが、そんなものを見にくる人もいないだろう」
 映画は戦争による悲劇を語っている一方で、劇中のモノローグは映画で戦争を表現することは不可能であると明言している。表現できたところで誰も目を向けない、とも。
『レベル5』には、二つの悲しみが混在している。ローラ(カトリーヌ・ベルコジャ)が操作するゲームが主題にしている、太平洋戦争の末期、沖縄戦での一般市民の集団自決について。そのゲームを作ったローラの夫は亡くなってしまった。
ローラによるモノローグは、戦争と沖縄という土地についての歴史的な悲劇と、家族との死別という個人的な悲劇を同時に語ってゆく。

『レベル5』についてのインタビューでマルケルは、沖縄戦が集団自決によって島民全体の三分の一もの人々が犠牲になった、第二次世界大戦の中でも最も狂気に満ちた悲劇のひとつであるにも関わらず、歴史から避けられて人々の意識にも留められていないものであったので光を当てたかった、と作品の動機を語っている。
「テレビの存在は大きな違いをもたらした。『レベル5』劇中の沖縄戦についての部分は、目撃者の証言に基づいている。何らかのドキュメンタリー、例えばボスニアやホロコーストでの個人の生き残りの物語が、普通にテレビを見る一日の中に組み込まれているのを想像してほしい。一般的なテレビの観客たちが、苦しみの物語の連なりのそれぞれに対して、どれだけ感覚を麻痺させずに理解することができるだろうか?他の方法が必要だった。
ビデオゲーム、コンピューターグラフィックス、女性─私がよく見るお気に入りの幻影たちだ。」

 観客である私たちに向かい合うように、ずっと正面を見つめながらモノローグを語っていたローラは、おそらくコンピューターの画面に話しかけていた。彼女は何を求めていたのだろうか。夫の遺したゲームを完璧なものにすることだったのか、ゲームの中で沖縄の悲劇を覆すことだったのか、ネットワーク上の匿名のユーザーと会話をすることだったのか。それともかつて夫と二人で興じていた”あらゆる物事にレベルをつけるゲーム”で、当てはまるものを全く見つけることができなかった”レベル5”を探すことだったのか。
けれどローラは、自分が誰に語りかけているのでもないということを知っている。
「いつか未来の民族学者がこの映像を見たら、20世紀末の奇妙な民族の葬儀について結論を出せるでしょう。この民族はごく普通の習慣として、コンピューターと呼ばれる新しい守護霊に語りかけていた。どんなことでも意見を求め、記憶を託していた。実際記憶はもう持たず、コンピューターが記憶だったのです。」この後には、実際に一番重要なのは自分が誰かに語りかけている姿を周囲の人間に見せて、彼らを安心させることなのだ、という言葉が続いている。映画には沖縄戦についてだけではなく、映画や文学についての事柄が至るところで引用され、ネットサーフィンをするように次々に情報が広がっていく印象すらあった(私自身、映画のなかに引用された知らない言葉についてすぐにインターネットで検索してしまった)。けれど「コンピューターが記憶だったのです」という言葉に反して、全てが終わった後、コンピューターにずっと語りかけていたローラの存在について尋ねても、コンピューターは何の答えも用意していない。例えばインターネットで人物の情報を検索しても、たったの何分かでそこから得られる表面的な情報ではその人を知りえない、というようなことなのか。それともローラ自身が、語りかけているコンピューターのことを誰のこととも思っていなかったからなのか。

 コンピューターはローラについて何も答えることがなかったものの、映画を観ていた私は、そこに登場し、モノローグを語るローラという女性の姿を見ている。コンピューターよりは何かを受け取って、その存在の背景にあった悲しみについてもしかしたら理解しているのかもしれない。けれど、映像を見ること、あるいは映像に残されることを、映画は穏やかな救いのあるものとして描いていない。むしろ何かの罪に加担しているような、はっきりとした恐ろしさがある。崖から飛び降りて自決した沖縄の女性が、その間際に一瞬だけ振り返ってカメラの方を見る、というフッテージを用いて、彼女は自分が見られている存在であるという実感から死を強要されたのだ、映像に撮られることによって彼女はカメラに撃ち落されてしまった、と語るように、映像に記録され、見られる存在になるということは、何かにとらわれることのようでもある。

 スタッフクレジットとともにフランスの歌手、ムルージの歌う『いつの日か』の音楽が流れて映画は終わる。その本当の意図はわからないけれど、少しロマンチックで感傷的な印象のあるシャンソンの音楽は、沖縄戦の歴史について語るこの映画も、愛する人を失ったローラの目を通して語られていた物語であり、フランス人であるマルケルによって作られたものなのだと印象づけているようだった。
1945年の沖縄と、制作当時、1990年代のフランスでは時間も距離も圧倒的に隔たれてしまっている。戦争や家族との死別による他者の悲しみを、自分のもののようにして捉えることにも。
ローラがずっと語りかけていたコンピューターから「どうローラするのかわからない」としか答えが返ってこないように、あるいは見られる側である被写体が拒否して映像がぼやけていってしまうように、映像もコンピューターも、その隔たりを埋めるには役に立たない。そもそも映画では戦争が再現できない、その隔たりは埋めることができないという前提があるようでもある。
映画の冒頭はコンピューターをマウスで操作する手のひらのカットを映している。最初に節だった手のひら、次のカットでは別の人物の手が同じコンピューターを操作している。恐らく映画を作るためにコンピューターを操作しているマルケルの手と、劇中でローラを演じたベルコジャの手なのだろう。現実からフィクションの要素が混じりあっていく。戦争の記憶や個人の悲しみの前にある、時間や土地、個人と他者といった隔たりを完全に埋めることはできないと語りながらも、それを語ろうとすることから映画は始まっている。

マルケルのインタビューは下記より参照
https://www.closeupfilmcentre.com/vertigo_magazine/volume-1-issue-7-autumn-1997/interview-with-chris-marker/

「クリス・マルケル特集 2019」は4月6日(土)~4月19日(金)まで、渋谷ユーロスペースにて開催中です。
『レベル5』のほか、『北京の日曜日』『シベリアからの手紙』『ある闘いの記述』『不思議なクミコ』『イブ・モンタン~ある長距離歌手の孤独』『サン・ソレイユ』『A.K ドキュメント黒澤明』の計8作品が上映されます。各作品紹介や上映スケジュールなどの詳細情報は、公式サイトをご確認ください。

レベル5
1997年/フランス/カラー/110分/”Level Five”
監督・撮影・編集:クリス・マルケル
撮影:ジェラール・ド・バティスタ/イブ・アンゲロ
出演:カトリーヌ・ベルコジャ
日本語版字幕/翻訳:福崎裕子 字幕:渡辺真也
配給:パンドラ

吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。大学は卒業したけれど英語と映画は勉強中。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感じが好きです。