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 1970年代末のポーランドの田舎町を舞台とする『メモリーズ・オブ・サマー』は、12歳の少年ピョトレックの物語である。彼の父親イェジーは出稼ぎ労働のために家を空けており、彼はあまりに親密な母親ヴィシアと二人で夏休みを過ごしている。映画は、夏休みが終わり、ピョトレックがヴィシアとともに学校へと向かう憂鬱な朝のシーンから始まり、そこから遡って夏休みの思い出(メモリーズ・オブ・サマー)を回想するかたちで進展していく。

 グジンスキ監督がCineuropaのインタビューにおいて語っているように、『メモリーズ・オブ・サマー』は、ピョトレックが「子ども」から「大人」へと移行するそのときに、その狭間で苦悩する思春期のある瞬間を描いている[1]。

 映画の序盤、母親を見つめるピョトレックのまなざしには――それは手持ちカメラを用いたアダム・シコラの繊細なカメラワークによって表現されているのだが――、どこかエロティシズムを感じさせるものがある。しかし、物語が進展していくにつれて、そのような関係は変化していく。たとえば予告やポスターにも採用されている回転ブランコのシーンなどにおいて、ヴィシアには他に欲望を向ける存在があることが描かれる。それはピョトレックではなく、あるときはイェジーであり、またあるときは名も姿もない彼女の同僚である。こうした母―子のあいだのエロティックな親密さは、季節の移ろいとともに喪われていく。

 このように、『メモリーズ・オブ・サマー』は、思春期における母親の喪失という物語を踏襲するようなかたちで構成されているのだが、だからといってこの、いわゆるエディプス・コンプレックスの三角形には回収されないさまざまな要素をも含み込んでいる。そしてそれは、ピョトレックが恋をする少女マイカ、マイカが恋をする不良グループのボスであるスコーロン、父親から貰った琥珀を首にぶら下げる眼鏡の少年などとの関係においてとり結ばれるものである(興味ぶかいことに、エディプスの物語はヴィシアとイェジーという家族あるいは「大人」とのあいだにではなく、彼/女らを反復するマイカとスコーロンという「子ども」どうしの関係において辿られ、乗り越えられている。そしてそれは家庭内ではなく、ポーランドの自然のうちで描かれている)。

 『メモリーズ・オブ・サマー』は、社会あるいは精神分析が方向づける「大人」なるエディプス的主体化から逃れていくものを拾い、映しだしているだろう。そのような力は、映画のファーストシーン=ラストシーンにおけるピョトレックのまなざしのうちにあらわれている。

 

[1]「物語は成長する12歳の少年に関するものであり、それは少年自身の視点から提示されます。私は、子どもたちが世界を見る方法や、思春期の重要な瞬間に興味を持っています。子どもたちは物事をよりはっきりと強烈に感じ、体験すると同時に、大人の世界に混乱するのです。」https://cineuropa.org/fr/interview/318551/

 

6月1日(土)より、YEBISU GARDEN CINEMA/UPLINK吉祥寺ほか全国順次公開

 

監督・脚本:アダム・グジンスキ

撮影:アダム・シコラ 音楽:ミハウ・ヤツァシェク 録音:ミハウ・コステルキェビッチ

出演:マックス・ヤスチシェンプスキ、ウルシュラ・グラボフスカ、ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ

原題:Wspomnienie lata /2016年/ポーランド/83分/カラー/DCP

配給:マグネタイズ 配給協力:コピアポア・フィルム                         

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板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。