本記事では、北京出身、シー・モン監督のデビュー作『アラヤ』を紹介する。

『アラヤ』

(中国/2020/カラー/150分/中国語/原題:無生)

物語の舞台となるのは山奥にある”アラヤ村”という村である。

狩りをする途中で、同行者であった幼い息子が行方不明になり、その帰還を待つようにしてただ1人山に隠遁する猟師。暴行されて身籠ってしまうシングルマザー。そのシングルマザーの私生児として生まれ、成長する娘。その娘も若くして意図せずに子供を身籠るが、父親となる交際相手に疎んじられてしまう。その交際相手は生まれた子供を山奥に捨てる。捨て置かれた子供を拾う、みすぼらしい身なりのある1人の男。その男こそが、山で息子を失い隠遁生活をおくる猟師である。猟師はこの赤子を、息子の生まれ変わりであると信じて大切に育てることにする。赤子は生まれつき心臓病を患っていた。治療のための薬が必要となるが、俗世から離れた暮らし向きの猟師には先立つものがなく、村唯一の薬局を襲撃して強引に薬を奪うことになる。この村唯一の薬局の薬剤師であるのが、前述した私生児として生まれた娘の、父親違いの兄にあたる人物である。兄は金儲けよりも薬剤師としての使命を重視するような篤志的な人物である。車椅子生活を送る妻と、幼い子供を慈しみながら、裕福ではないながらも温かで堅実な暮らしを営んでいた。しかし、ある出来事が起きてそんな暮らしも破滅する。一家はばらばらになり、もう2度と会うことは出来なくなってしまう。

物語の前半部には畳みかけるようにして、上述の出来事が細切れに展開されていく。観客である私たちはその出来事と出来事の間に、関係の糸を結ぶことが出来なくて、ただ淡々と物事が進行しているような印象を受ける。物語の後半部に差し掛かるとやっと、関係の糸が見えてくる。先に、”ある出来事が起きて”そんな暮らしも破滅する、という言葉を書いたが、”ある出来事をきっかけとして”と書かなかったのは物事の因果が重層的であるからだ。確かに外見上は、”ある出来事”がきっかけだったのだ、と捉えることができるのだが、繊細に因果が折り重ねられていくこの映像を見ていると、そのような安易な断定はなんとしても避けねばならぬ、と思う。

物語には金剛経の中のある一節が引用されている。

「諸相は相に非ずと見るは如来を見るなり」

諸相とは眼に見えるもの、姿かたちのあるもののことである。現実世界において私たちの眼前に展開されている出来事は諸相である。諸相の対となるのが非相である。非相は、はっきりとした姿を持たず、時には眼にも見えない。如来とは、ものごとの真の姿のことである。眼に見えるもの、見えないもの。両者を注意深く見つめてはじめて、ものごとの真の姿に出会い、真理を体得することが出来る。眼前に展開されている出来事のみに気を取られていると、世界の本当の姿は手中から掠め取られてしまうのだ。

舞台となっている架空の村、”アラヤ村”と同じ名前の阿頼耶識(あらやしき)という仏教の言葉がある。これはサンスクリット語のAlayaに漢字を当てたもので、Alayaは「おさめる」という意味だ。阿頼耶識とは個人の意識の最深部で働く根源的なこころのことである。そこには個人が行ったありとあらゆる業の影響がおさめられている。肉体や自然界はこころとは別のものだと考えられるが、大乗仏教はそれらすべてはこころの一部で、この阿頼耶識から生じるものだと説く。

終盤では中国大陸の雄大な自然が映し出される。登場人物たちはみなそれぞれ、形ある大切なものを失う。大きな喪失がいくつも物語には散りばめられているのに、画面からは不思議と、悲壮感が漂ってこない。原題となっている無生という言葉は、「生じたり変化したりする迷いを超えた絶対の真理、悟り」を意味する。スクリーンに映し出される大きな山々を見ていると、大いなる時の間を泳いでいるかのような気持ちになった。それは私という存在が、眼前の世界に括りつけられた座標点から逃れて、はっきりとは姿を現さないものたちに出会ったからなのだと思う。それは世界のほんとうの姿に出会うことでもあり、その出会いはごく安らかでもあった。

 

 

川窪亜都
2000年生まれ。都内の大学で哲学を勉強しています。散歩が好きです。