第21回東京フィルメックス。本記事では、11月3日(火)に上映されたソン・ファン『平静』、リティ・パン『照射されたものたち』、ヒラル・バイダロフ『死ぬ間際』を紹介します。

『平静』The Calming

中国 / 2020 / 89分

監督:ソン・ファン(SONG Fang)

 白い壁に木々の映像が投影されている。男がプロジェクターを操作し、映像の出力を調整している。アーティストのリンは、もう少し明るさを下げてほしいことを男に伝える。映画は、リンが東京のギャラリーで、自分の作品の映像展示の指示を行なっているシーンから開始される。ギャラリーをあとにしたリンは、東京で友人と会い、一緒に食事をする。彼女は友人に、長いあいだ交際していた、彼に紹介してもらったという恋人と別れたことを打ち明ける。

 それからリンは、新潟や香港、南京へと旅をする。小さなアパート、広大な自然、賑やかな都市、ホテルなど、さまざまな空間を、タクシー、電車、新幹線などの交通機関を用いながら、あるいは自然のなかを歩きながら移動する。その多くのシーンは固定カメラでの長回しでとらえられており、BGMは使用されない。その場の環境音が響きわたり、われわれはそれにとらえられ、包まれる。映画は、物語を重要視しない、つまり、移動を、どこかへ向かうことの手段のみに奉仕するものとして提示してはいない。そうではなく、カメラはつねに彼女の身体をとらえつづけながら、移動それじたいを身体で引き受けることを提示しているのである。移動することによって、あらゆる人やものと受動的なかたちで出会い、それぞれの空間に関わっていく。われわれはそのとき初めて、多くのものを受容しうる。それこそが、喪失感を解消すること、自分が抱える痛みを剥ぎとり、そこから離れてゆくことへと結びつきうる。

 本作は、俳優でもあるソン・ファンの監督第2作である。ニューヨーク映画祭やサンセバスチャン映画祭などに出品され、ベルリン映画祭フォーラム部門では国際アートシネマ連盟賞を受賞した。ジャ・ジャンクーと市山尚三がプロデューサーを務めており、市山はリンの日本の友人役として出演もしている。

 

『照射されたものたち』Irradiated

フランス、カンボジア/2020/88分

監督:リティ・パン(Rithy PANH)

 この映画がわれわれに見ることの困難さをもたらすのは、あまりに過激で残虐なシーンが含まれているという映像のもつ力の大きさによるものだけではなく、画面が三つに分割され、同じ映像が並列に並べられることもあるが、ときにそれぞれの画面で異なる映像が映されたり、あるいは一つの映像が三画面にわたって広げられ映されたりする、その構成によるものでもある。

 映画は、悪によって照射されたものたちを、画面の分割、映像の中断・反復によって映し出す。われわれは、悪によって無差別に照射される存在である。照射されたあとでは、もはや語ることができない。火傷で爛れた皮膚、切断された身体、死体の山、破壊された都市、遺影、これら照射されたものたちの断片を何度も映しだし、物語へと回収させずに提示する。ときに映画は、ひとときの無音状態となる。しかしそのときに映し出されるのは、最も恐るべき映像である。こうした途方もない暴力は、現在でもなお続いている。だからこそ映画は、われわれに「100回見よ」と訴えるのである。照射されたものたちとは、われわれのことである。この映画に映し出されているのは、国家による殺人の記録であり、国家によって殺された、われわれ自身の記録である。

 カンボジア出身であり、これまで自身が体験したポル・ポト政権率いるクメール・ルージュに関するドキュメンタリーを複数制作してきたリティ・パン。ベルリン映画祭コンペティションで上映され、最優秀ドキュメンタリー映画賞を受賞した本作は、広島、長崎の原爆投下、ナチスのホロコースト、南京大虐殺、ベトナム戦争のナパーム弾、ポル・ポト政権下の虐殺など、世界中のさまざまな戦争による悲劇を、膨大な資料映像と白塗りの舞踏家ビオンによるダンス映像のモンタージュによって描いたリティ・パンの最新作である。

 

『死ぬ間際』In Between Dying

アゼルバイジャン・メキシコ・アメリカ/2020/88分

監督:ヒラル・バイダロフ(Hilal BAYDAROV)

 主人公のダヴドは、大学に行きながら、病気のためにソファで過ごす母親の看病をしている。彼は退屈な毎日にうんざりしている。家を飛び出したダヴドは、恋人とバイクに跨がり、薬物を買いに売人のもとへ向かう。彼は売人がいる丘の上で、ある男に恋人を侮辱されてしまう。腹を立てたダヴドは、衝動的にその男を銃で殺してしまう。映画はそこから、バイクで逃げるダヴドを、売人の仲間である追っ手の3人とともに追いかけていく。

 ダヴドは、逃走中にさまざまな人に出会う。納屋の中で父親に5年以上監禁されている少女、アルコール中毒の夫から暴力を受けている女性、愛してもいない人と結婚することを叔父から強制され、逃げてきた花嫁、そしてその花嫁の妹である、母親を生きたまま埋葬しようとする盲目の少女である。彼女たちは、男たちによって管理され生を抑圧された存在である。映画の序盤で明らかなように、ダヴドは母親の看病をするものであり、恋人への暴言を否定するものであった。であるならば、ダヴドとは、彼女たちの抑圧を引き受ける存在なのであり、彼女たちはダヴドに出会うことで抑圧から解放され、自分を取りもどすのである。このようにしてダヴドはいつしか、殺人を犯した逃亡者としてではなく、女性たちをその頸木から逃れさせ解放させる存在となっていく。

 本作は、アゼルバイジャン出身のヒラル・バイダロフによる長編映画第2作であり、ヴェネチア映画祭コンペティションに選出された。終始陰鬱とした本作の多くのシーンは、固定カメラでの長回しによってとらえられている。ウエディングドレス姿の花嫁と二人、もはやシルエットが認識できないほど深い霧が立ち込めた草原をさまよい歩く長回しのシーンは、とくに印象的である。

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。