『私はあなたのニグロではない』(二〇一七)は、監督を務めたラウル・ペックが愛読するジェイムズ・ボールドウィンの未完の遺稿“Remember This House”をもとにして制作されたドキュメンタリーである。この幻の著作は、ボールドウィン自身の個人的な体験と、彼の友人であったメドガー・エヴァーズ、マルコムX、キング牧師という三人の黒人活動家を取り上げながら、アメリカにおける差別の問題を扱ったものである[1]。ペックは、この遺稿に依拠しながら、ボールドウィンの他の著作をはじめ、テレビ番組、インタビュー、講演、ニュースなどを用いながらシナリオを構成しつつ、そのシナリオに沿ったかたちで多様な映像をパッチワークしてみせる。第一弾では、ペック監督のインタビュー記事やボールドウィンの言葉を取り上げながら、この作品の制作過程やその目的に関して考察がなされた。第二弾の本稿では、本作『私はあなたのニグロではない』の編集形式に関して考察していきたい。

 実際のニュース映像や写真、インタビューなどをナレーションを用いて一つにまとめ上げることで作られたドキュメンタリーのことをアーカイブ・ドキュメンタリーという。ペックが本作品においてわざわざアーカイブ・ドキュメンタリーという手法を用いたのには理由があるだろう。なぜならベックは、『ルムンバの戦い』(二〇〇〇)や『マルクス・エンゲルス』(二〇一七)など、ドキュメンタリーではない作品の監督も務めているからである。佐藤真はアーカイブ・ドキュメンタリーを、「『作家主体を放棄した映像の屍』を、作家主体をもった映像作家が編集・再構成することで〈時代の無意識〉が抽出できる」[2]ものとして定義したが、ペックもまた本作品をアーカイブ・ドキュメンタリーという形式によって製作することで、当時の「時代の無意識」を抽出しようとしたのではないだろうか。そしてそれはたとえば、実際のハリウッド映画を引用しながらボールドウィンの映画体験が辿られるパートにおいて見出されるだろう。

 批評家の大場正明が言うように、ボールドウィンの映画体験を辿ることは、アメリカ社会における黒人の歴史を辿ることでもあった。サミュエル・L・ジャクソンの声を通したボールドウィンの言葉と、ハリウッド映画における黒人表象とをミキシングすることでペックが目指したのは、「時代の無意識」を抽出すること、そして、それを通じてアメリカン・ドリームの影にある幾多の犠牲を明らかにすることであった。当時のハリウッド映画において、主役はつねに白人であり、黒人(あるいはネイティブ・アメリカンなど)はその引き立て役としてのみ登場していた。ここに、マジョリティの側においてはその問題点すら気付くことが困難な差別があるのだ。こうした差別は1862年以降も社会常識というかたちで根深く残っていたからである。現在、差別的な言説が飛び交いながらも問題視されることの少ない日本においてもそうであるように、常識を議論の俎上に載せるということは、非常に困難な作業であるのだ。

 ペックは黒人の登場シーンを断片へと裁断し、それぞれの文脈から分離させつつボールドウィンの言葉とともに再結合させることで、それがいかに白人側のステレオタイプをまとったかたちで描写されていたのかを明らかにしていく。こうした編集によって、ボールドウィンを通じた黒人たちの感情を明らかにしながら、当時の白人が抱いていた黒人に対する無意識のステレオタイプを暴き出すのである。またこれによって白人たちは、自分の無意識のうちにあった差別に気付かされるのである。

 第二の理由として、ドキュメンタリーは鑑賞者に対してフィクションとは違った映像との向き合い方をさせる、ということがあるからではないだろうか。エリック・バーナウによれば、ドキュメンタリー作品は初めからテーマを公言しているために「人は批判的に見る能力を全開にして見る」のだという。それに対して娯楽作品としてのフィクションにおいて、鑑賞者は「批判的に見る能力が鈍る」のであり、またそれに加えて、その作品内には暗黙の前提が必ず隠れているため、「人はその前提を受け入れるように操作されて」しまうのだという[3]。ボールドウィンの手稿をフィクションによって製作するのではなく、当時のニュース映像や写真などを用いてアーカイブ・ドキュメンタリーによって作り上げたのは、見えにくくなっている前提としての常識=「時代の無意識」を浮かび上がらせ、現在においてこれを議論の俎上に載せることを目指したからであろう。そのため、ドキュメンタリーという形式で製作することによって鑑賞者の「批判的に見る能力を全開に」するということが企図されたのではないだろうか。

 アンドレ・バザンは、クリス・マルケルの映画『シベリアからの手紙』を評しながら、この作品を「記録映画形式のエッセイun essai en forme de reportage cinématographique」と表現したが、『私はあなたのニグロではない』もまた、ボールドウィンの文章を借りたペックの、いわゆる「エッセイ映画」であるとも言いうるかもしれない[4]。バザンによれば、ドキュメンタリーにおいて第一の素材となるのは映像である。これとは対照的に、エッセイ映画では知性が第一の素材となり、この知性を表現するものとしての言葉が第二の要素となる。エッセイ映画において、映像は第三の要素でしかない。そうであるならば、ベックは本作において、マルケルに連なるエッセイ映画のような形式によって映画を構成することで、知性を用いて「時代の無意識」を抽出しながら、ボールドウィン=ペックの思想を現代の観客に訴えかけることを試みているのではないだろうか。

 そしてそれは、アメリカだけではなく、政治家の間ですら当然のように人種あるいは国籍、性差別的な言葉が交わされる日本においてもまた重要な意味を持つだろう。いやむしろ、差別に自覚的ではないわれわれこそが、ペックのこの問いを引き受け、再考しなければならない立場にあるではないだろうか。

 

 次回予告:リレーレビュー最終回の第三弾では、作中で引用された映画に焦点を当てながら、本作品について紹介いたします!

 

『私はあなたのニグロではない』(原題「I AM NOT YOUR NEGRO」)

2016/アメリカ・フランス・ベルギー・スイス/93分

監督:ラウル・ペック

原作:ジェームズ・ボールドウィン

語り手:サミュエル・L・ジャクソン

日本語字幕:チオキ真理

字幕監修:柴田元幸

配給・宣伝:マジックアワー

公式サイト

5月12日(土)ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開

 

[1] https://www.npr.org/2017/02/02/511860933/james-baldwin-in-his-own-searing-revelatory-words-i-am-not-your-negro

[2] 佐藤真によれば、「映像の屍」とは作家主体が不在である映像のことである。テレビ番組において映像は万人受けが求められるため、そこには大衆による暗黙の前提が含まれることになる。佐藤真『愛蔵版 ドキュメンタリー映画の地平 世界を批判的に受け止めるために』凱風社、二〇〇九年、五三二頁。

[3]エリック・バーナウ『ドキュメンタリー映画史』安原和見訳、筑摩書房、二〇一五年。(Erik Barnouw, Documentary : A History of the Non-Fiction Film, Oxford University Press, 1993.)

[4] André Bazin, « Lettre de Sibérie » Le Cinéma français de la Libération à la Nouvelle Vague 1945-1958, Paris, Cahiers du cinéma, 1984, p. 180.

 

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。趣味は寝ること、最近よく聴くフォーク・デュオはラッキーオールドサン。