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先日6月7日、indietokyoが開催する第二回ホームパーティが開催された。現在大ヒット公開中の映画『ローリング』について、監督の冨永昌敬さん、主演の柳英里紗さん、文筆以外にもイラストレーター、パーティイストと多彩な顔を持つヴィヴィアン佐藤さん、そしてindietokyo代表である大寺眞輔の4人が出演し、トークを行った。

映画監督・冨永昌敬の誕生と黎明期

トークではまず大寺が、冨永監督に出会った経緯を語った。

その頃の自身について、「自分の作ったものなんてボロクソに言われるかと思っていた」と語る冨永さん。しかし水戸短編映画祭での「賞」という形で評価されたことで自分に自信がつき、その後の活躍の大きな第一歩となった。大寺自身も、「いろんな自主映画を見てきたけど、これはレベルが違うと思った」と語った。

今回、冨永監督の初期短編『テトラポッド・レポート』(2003)がトークの前に上映されたこともあり、この作品の感想について、改めて4人が話し合った。まず「『ローリング』の前身のように見える」と佐藤さん。たとえば、『テトラ』の中で重要な意味をもつ“発電機”が、『ローリング』でも登場すること。「発電機というものにすごい捉われていたんだなあ」と苦笑交じりに語る冨永監督。また、『テトラ』は伝説のクレイアニメ映画を上映会で流すという、いわば「映画内映画」を中心とした話で、そこにも『ローリング』との関係性は見られるという。「劇中映画とか、伝説の作品とか、とにかくいろんな要素を詰め込めば観客が面白がると思って。これだけの情報だと長編映画にするのが自然だと思うんですけど、なぜか僕、長編映画はとれないとか変な思い込みがあったんですよ。いま思うと、ほんと頭悪かったなあと(笑)」しかし、では本作は“詰め込み過ぎの頭の悪い映画”なのか?と言われれば、そんな印象は全くない。「すごくリズム感があって、そこから作り手の体力や映画的感性を感じることができる」と大寺。それが冨永監督の資質であるとも。

冨永監督には、「最初から90分の長い映画を作ればよかった」という思いもあった。しかし大寺は、「5~15分ほどの短編映画と、90分~120分の長編映画は構造的に違う」と語る。「冨永監督の『VICUNAS』『亀虫』(2005)といった作品を見たとき、彼は短編の名手であると感じました。それは陸上で言えば、100mをすごい速さで走る選手のようなもので、マラソンを初めとした長距離選手とは違うわけです。それは優劣の問題ではないんですけど、ただ映画の場合は、短編の監督は格下のように思われてしまう。冨永監督の場合、長編を撮り始めてからも、そうしたジレンマはあったように思います」。事実、長編映画デビューを果たしてからの冨永監督には、やはり“詰め込み過ぎてしまう”という欠点はあったという。たとえば、デビュー作の『パピリオン山椒魚』(2006)は、最初に書いた台本は4時間ほどもあり、それを90分ほどに凝縮する形となった。結果的にリズム感はある作品にはなったものの、“監督が主張したいこと”はあまり画面からは伝わってこなかったという。映画批評家としての大寺も、『パピリオン』を初めとするこれまでの長編作品について「観客に伝える」ことに苦労しているな、と感じていた。しかし、冨永監督にとって長編デビューから10年を迎えた『ローリング』は、作品を支えるテーマと、冨永監督がもともと持っていたリズム感=映画的感性がうまく結びついて、「彼の最高傑作になった」と大寺は語る。では『ローリング』とは、どのような作品なのだろうか?ここからは作品の話を中心に、4人がざっくばらんに語る。

『ローリング』の中に見る冨永監督の存在

まず、「“土地から湧き出る力”を色濃く感じた」と佐藤さん。その言葉を聞き、冨永監督が会心の笑みを浮かべる。「『ローリング』は、茨城県水戸市で作るという前提で撮っていて、本編に出てくる飲屋街で情報収集をしたのが始まりだったんです」また、主演の三浦貴大をはじめとした登場人物も、実際の人物を参考にしていたという。ソーラーパネルとおしぼり(これ以上はネタバレになるので言えません)が大きな役割を果たす『ローリング』だが、三浦演じるおしぼり業者の貫一は、実際に夜の街で配達をしている若者からインスピレーションを得た。「こういう人だったら夜の街のあれこれを見ているんじゃないか、キャバクラやスナックのお姉さんとも知り合いなんじゃないかと思いました」またもう一人の主人公である、川瀬陽太演じる元教師・権藤は、マスメディアで報じられる教師の不祥事を参考にしている。「なにかまずいことをして辞めた先生が、今後どのように生きていくのかということに興味を持ったんです。もう復職はできないだろうけど、頭の中はまだ教師で、そんな中元教え子たちに会ったらどうなるだろうかと。水戸で映画を作ろうとなったときに、自分の中で気になっていたことをいろいろぶち込んだ感じですね」この映画においては、元教師、元教え子のほかに、元刑事などさまざまな“元”を持った人間が登場する。一方、その中で一人だけ特別な位置にあるのが、柳さん演じる「みはり」という女性だ。彼女は東京で何かを起こし、彼氏(権藤)の出身地まで逃げてくる。彼女をめぐって、さまざまなドラマがこの映画には生まれてくる。

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教え子と教師とは、一見すると正反対のパーソナリティーに見えるが、実はどちらも「冨永監督自身」であるという。「はじめ僕はおしぼりを配達している方、つまり若者目線だったんですよ。でも、なぜか筆が進まなくて。自分の中の設定としては、貫一が28歳、権藤が40歳くらいの設定にしていたんですけど、よくよく考えると僕も今年40で、さらに言えば映画の専門学校とかで生徒もいるんですよ。自分ではもっと若いつもりだったんですけど、もはや完全にあちら側なのだと(笑)。それで頭を切り替えたら、筆がすらすらと進むようになりました。映画の終盤、権藤が逆境から開き直るようなシーンがあるんですけど、あれはその時の僕みたいな感じで、いろいろとシンパシーはありましたね(笑)」柳さんもまた、冨永監督から「貫一」と「権藤」の、ふたりの人間を感じる機会は多かったという。「撮影中は、貫一のときの冨永さんと、権藤のときの冨永さんを常に意識する感じでした。貫一のときはお前とか呼んできてぶっきらぼうで、権藤のときは英里紗ちゃん!英里紗ちゃん!とかわりとおじさんぽい感じで(笑)。映画で3人になることが最初を除けばあまりなかったので、貫一といるときは冨永さんが権藤みたいな感じで、逆もそんな感じでした。だから、撮影中はずっと三角関係みたいな感じでしたね(笑)」

今回『ローリング』のパンフレットでは、大寺が冨永監督へのロング・インタビューを行っている。そこでも話の中心になるのは、柳さんや冨永監督自身が指摘しているように、『ローリング』には本当に“冨永昌敬”が色濃く出ているということだ。28歳の冨永監督もいれば、40歳の冨永監督もそこにはいる。

今回『テトラポッド・レポート』を見て、柳さんは「冨永監督の作品で一番怖いと思った」と感想を述べる一方、最新作である『ローリング』には、これまでの冨永作品とは確かに違うものを感じたという。それは特に、「言葉が速くない」ということ。これまでの冨永作品は台詞の速い作品が多かったのだが、『ローリング』ではそうした感触はほとんどない。

このことについて冨永監督は、「長編映画を何本も撮っていく中で、観客の生理がなんとなくわかってきた」からであるという。「映画を作る際に、自分も観客の一人だということがなんとなくわかってきたんです。自分が第三者としてみたときに、“わからない”となったら、観客も当然分からないだろうと。成長したと思います。昔と比べて体力が衰えたから、あまり映像でむちゃはできなくなったこともあるんですけど(笑)」また、冨永作品における女性像も、これまでとは確かに変化したと大寺は語る。「これまでの冨永作品に出てくる女性は、可愛くて気が強くて、男性たちを積極的にリードするような感じでした。つまりTHE・男性の理想像という感じなんですけど(笑)、今回の柳さんの役柄はまったく違って、リアリティというか、確かな情感が感じられるようになったと思いました」このコメントに対して冨永監督は、「若いころは難しい本ばっかり無理して読んでいたので、どうしても頭でっかちなキャラクター造形になってしまっていました」と述べた上で、「でも年をとるにつれて、発想が柔軟になってきたのではないかと思います。あの頃より、抽象的な思考力が衰えたということもありますが(笑)」と答え、自分の変化について改めて想いを馳せた。

柳さん、冨永監督の背景

ここから、柳さんに関するトーク。柳さんは19歳のとき“シネフィルの憩いの場”と言っても過言ではない日仏学院(現アンスティチュ・フランセ)で、フランス料理店のアルバイトをしていた経験がある。そのきっかけについてまず大寺から質問が振られた。「俳優という仕事について、一回全部嫌になってしまったんですね。私0歳のころから俳優をやっているんですけど、それ以外の世界を見られないというのが嫌で。そんな中、マネージャーだった人のお姉さんに日仏学院に連れて行ってもらったんですけど、そこでランチしたお店がすごい雰囲気が良くて、それをお姉さんに話したら、ここバイト募集してないのって、勝手に店員さんに聞いたんですよ(笑)。それですごいたまたまなんですけど、アルバイトの子がひとり辞めて欠員があって、そこで私がその場で採用されることになったんです。履歴書も無しで、明日からさっそく来てくださいってなって(笑)。どんな場所かは知らなかったんですけど、直感的なものを感じてアルバイトを決めました」つまり柳さんは、自分が立ち入ろうとしている場所が映画上映のメッカだということを知らず、“はじめてのアルバイト”という感覚で日仏学院に出入りするようになったわけだが、それが柳さんを、ふたたび映画の世界へ向かわせる大きなきっかけとなった。たとえば、ルイ・マルの『地下鉄のザジ』や、『ルパン3世』のフランス版の作品を見たこと、青山真治監督がいらしていたことを聞いたり、また現地でのさまざまな映画人との出会いが、まだ見ぬ映画への興味をさらに湧き立たせたという。そんな中、もともと知り合いであったプロデューサーに「フリーでもいいから映画に出てみないか」と言われ、柳さんはそれなら、と映画界に戻った。結果的に、事務所に所属していたときよりもさらに仕事は増えることとなった(!)が、柳さんはこの選択に後悔はしていない。そのおかげで、『ローリング』という素晴らしい作品にも出会うことができたのだから。

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そして、冨永監督の実家について。一言で言えば、“なんでも屋”のような環境であったという。スナックでもあり、旅館でもあり。いろいろなことを小さくやっていた。そこでは、冨永監督の担任の先生などが飲みにくる機会もあった。また、独身の先生にご飯を提供したり、また風邪をひいた先生のもとに冨永監督がご飯を届けたり、という一面もあったという。そんなこともあって、先生との間には普通の「教師と生徒」とはちょっと違った関係が生まれていた。「そのおかげで不良にもならなかったし、『ローリング』の貫一みたいな人物を考えることもできた」と冨永監督は語る。そういったいい意味で雑多な環境が、この映画の大きな魅力にもつながっていると言えるだろう。

冨永監督の演出作法

大寺は『ローリング』を、「観客の生理に密着した、観客の気持ちをうまくつかんでくれる作品」であると語る。そのひとつには、セックス・シーンを初めとした柳さんの存在感があるが、その背景について、冨永監督は次のように語る。「柳さんとは撮影の一年前に水戸で初めて会ったんですけど、そこで彼女が出演した『チチを撮りに』という映画を見たことが大きなきっかけでした。可愛いんだけど、なにかすごく邪悪なものが中に入っているような(笑)。それから、『ローリング』のオーディションに来てくれる人の中に彼女の名前を見つけて、すごくわくわくしていました」しかし、柳さんはオーディションに遅刻するという、まさかの失態をやらかす。「それまで遅刻したことはなかったんですよ。でも、携帯が急に壊れて場所がわからなくなって。結果的に30分くらい遅れて行ったんですけど、その時にはもう駄目だって思いました。台本も渡されなかったし芝居をやってとも言われなくて、ただ雑談して帰ったんです。それで完全に落ちたと思いました」しかしながら、結果はまさかの合格。冨永監督は雑談の中で、以前柳さんに覚えたような魅力を確かに感じることができたという。主演女優を得て、『ローリング』の撮影はスタートした。

冨永監督の演出作法は、果たしてどのような形であったのか。柳さんは撮影について、“パズルを解いていくような”感じであったと述壊する。「普通の監督だったら、この時の彼女はこういう気持ちで動いているんだよって、役の気持ちについて説明するんですけど、冨永さんはなんか、ふわっとした形で指導をしてくるんですよね。たとえば、みはりが働いている店でずっと氷を入れているシーンがあるんですけど、こうやって入れたら楽しいよとか、上から入れるような感じにすると面白いよとか、そういう感じでコメントを入れてくるんです。それがなんか面白くて、どういう答えを自分は返せばいいのかと、楽しみながら考えた感じがありましたね(笑)」

大寺によると、黒沢清監督などにも同じような演出作法が見られるという。「心理を説明するのではなく、ここでこうやるのが楽しいとか、俳優にちょっと考えさせるやり方ですね」ただ冨永監督の場合は、俳優とより楽しげに関わっている印象が強い。先ほどの柳さんの発言からもそれは読みとれるが、やはり、冨永監督の人柄によるところが大きいのではないだろうか。たとえば、撮影の際に手持無沙汰となってしまう俳優がいると、冨永監督はかならず声をかけるようにしていたという。こうしたエピソードをひとつとっても、冨永監督の繊細な心づかいが伝わってくるだろう。

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映画の演出とは何なのか、一概に言うことは難しい。たとえば佐藤さんは「カメラとか音楽とか、そうした要素は恣意的なものではあるんですけど、役者さんの癖とか立ち振る舞いとか、もともと肉体に入っているものは判別できないですよね」とした上で、そうした点が魅力のひとつでもあると語る。確かに本作は、演出の良し悪しだけで割り切れるものではない(映画とはそもそもそういうものなのかもしれないが)。しかしながら、映画としての「良し悪し」で言えば、『ローリング』は確実に「良い映画」であることは確かだ。

冨永昌敬3.0、そしてその先へ

冨永監督はまとめとして、『ローリング』は“変身”の過程を描いた映画だとし、それは自身のこれまでとも共通する部分があると語った。「この映画では2回の変身があります。まず先生がダメになっていたところから立ち直るというのと、あとひとつ、最後に大きな変身をする。それはネタバレになってしまうんで言えませんけど、これは自伝的(笑)な要素もあると思います。1回目の変身が、頭でっかちだった自主映画時代から商業映画デビューを果たしたころで、2回目が40を迎えて、今回撮った『ローリング』であるととらえているんですね。そういう意味で、本作は僕にとっても大きな分岐点であると思います。」

『ローリング』のパンフレットで大寺が冨永監督に行ったインタビューには、「冨永昌敬2.0」というタイトルがつけられている。つまり、これまでの冨永監督からは確実に「アップデートされた」作品がこの『ローリング』となるわけだが、これから先、冨永昌敬はどのように変化を遂げるだろうか。40歳にして自身の最高傑作を完成させた冨永監督が、続く「3.0」「4.0」バージョンの作品を見せてくれることに、今から期待は尽きない。

(構成=若林良、協力=髭野純)

若林良
90年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程。『neoneo』『週刊朝日』などで映画評・書評を執筆。のび太と同じくらいマヌケなのに、自分のもとにドラえもんがこないことに不満を覚えています。