1月8日より、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国で、セドリック・カーン監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演『ハッピー・バースデー 家族のいる時間』が順次公開される。今回はオンライン試写にて本作を鑑賞したほか、zoomを用いてセドリック・カーン監督にインタビューを行った。本記事では監督へのインタビューの模様を紹介する。

自ら長男役を演じた監督と、主演のカトリーヌ・ドヌーヴ

—本作を撮り始めたきっかけは?脚本が先だったのか、それとも主演のカトリーヌ・ドヌーヴに合わせて脚本を書いたのか。

家族、さらに家族のなかの心を病んでしまった人がテーマの映画が撮りたかったので、脚本が先です。でも執筆の時から、カトリーヌ・ドヌーヴのことは考えていました。彼女がオファーを受けてくれたときはとても嬉しかったです。他の俳優たちに関してはテストを繰り返して、グループとして機能するような配役にしました。

—本作では長女クレール役をエマニュエル・ベルコ、次男ロマン役をヴァンサン・マケーニュ、さらに長男ヴァンサン役を自身が務めている。アンドレアの子供を演じる3人全員が映画監督である。これは意図したものなのか。

重なったのは偶然です。だけれど、共通の部分があることによって、非常にバランスの取れた組み合わせになったと思っています。

—今までの作品では監督業のみを務めていたが、本作では初めて俳優と兼務している。その違いや苦労はあったか。

監督として物事をジャッジするのではなく、感情的な面で映画に参加して、有機的に映画を作り上げていくという感覚がありました。これまでは役者として参加することで、監督としてのコントロールが失われてしまうのでは、という不安がありました。役者としての技量の不安と共に。でも本作で演じた長男ヴァンサンは家族のオーガナイザーであって、家族を上からまとめるという立場でした。ヴァンサンの家族の中における立場が映画における監督という立場と重なったからこそ兼務ができた、と思っています。

—オープニングで私たち観客は、子供たちと共にアンドレアの屋敷の中に招き入れられる。このシーンは華やかな舞台に招き入れられるようで非常に印象的である。一方で物語が進むにつれて、この華やかな屋敷はいずれ売られる運命にあるということが分かる。この描写にはどのような意味が込められているのか。

豪華ながら古めかしい屋敷は、一家が過去を食べて生きているということを表しています。一家の今の世代の人々は、長男以外まともに稼いでおらず、ほとんど全員が遺産で生活を成り立たせています。一家は過去の栄光にすがり、現在の稼ぎ以上の生活をしているのです。

—カーン監督の中では珍しい大人数のアンサンブル。その中で長女のクレールは家族団欒の最中でトイレに籠ったり、ダイニングでヒステリックに叫んだりする、孤独で心を病んだ存在である。クレールのような家族の中での他者ともいえる、マージナルな存在をなぜ取り扱ったのか。

私はあのような狂気の人物を家族というテーマの中心に据えています。1つの家族における狂人のポジション、さらに家族がその狂気をどのように扱うのか、ということを描きたかった。彼女はある意味では、あの家族の犠牲者、被害者でもあるのです。私に言わせれば本当は家族全員が狂っています。長男ヴァンサンも外の世界では常識に溶け込んだ普通の人物ですが、長女クレールやエキセントリックな次男ロマンという家族の中に入ると浮いた存在、部外者になります。そんな中で狂人というレッテルを貼られて、異常という立場に追いやられているのがクレールです。どのように家族が狂気を扱うか、という問題に関して言うと、当然あの家族は狂気をうまく扱えていないということになりますね。

クレールとヴァンサン

—次男ロマンは家族の宴をドキュメンタリー映画として撮影しているほか、長男ヴァンサンの幼い息子2人はインディアンごっこや西部劇ごっこをして遊んだり、孫娘エマが脚本を書いた芝居を演じたりする。物語のなかに小さな芝居や劇が多く入り込んでいるが、それはどうしてなのか。

私は家族のメンバーはすべてどこかでアーティストであると思っています。それぞれの立場から、それぞれの視点から、家族それぞれが自分の物語を語るという構造にしたかったのです。加えて私は、私たちを狂気から救うものはフィクション、芸術的な表現であると信じています。物語の終盤でヴァンサンはロマンが撮影をしていたカメラを投げつけて壊します。家族の中でヴァンサンは真実を求める人という立場です。一方で彼以外の家族はどこか空想的で、実生活のなかでも演技をしているという側面があります。私自身は、演技は人を救う、と思っています。エンドロールに近いシーンでは、ロマンが撮影し、クレールが出演した自主映画の映像が流れます。あれは狂気の、子供っぽく楽しい、クリエイティブな一面を表しています。ヴァンサンはそのような楽しい妄想、ファンタジーを欠いていて、その意味では悲劇的な人物でもあると言えるのです。

—本作は悲劇のようでもコメディのようでもあり、深刻なテーマの中にも軽快さや明るさがある。演出の上で意識したことはあるか。

 深刻なテーマを深刻に扱うことはしたくありません。実人生も悲喜劇だと思っているからです。私も家族の中に狂気の人がいたことがありますが、その狂気によって笑ってしまうようなおかしなことが起こることもあるのです。この映画自体、私の家族がインスピレーションの源で、女性を中心として物語が進むのも、私の家族において女性が強く、男性が押しつぶされているからです。でも現代においてはすべての家族で、父権的なものは弱くなっているのではないでしょうか。

—カーン監督の作品はどれも、役者が伸び伸びと演技をしている。本作では家族みんなでダンスを踊っている時に、はだけた娘の服をカトリーヌ・ドヌーヴが直すシーンが印象的である。あれはアドリブなのか、それとも演出なのか。

 あれはアドリブです。でも、ああいったシーンが生まれるためには俳優たちに自然なコンテクストを与えて、演技に自由さを残しておく必要があります。

—監督の作品では子供が生き生きとしているのも印象的である。大人の世界と子供の世界が並行して存在しているが、そのズレをどのように描いているのか。

私の映画にとって子供の存在は重要です。子供というのは常に正常、健康なものであって、将来に対する希望を象徴しています。家族における幸せな雰囲気を子供がもたらしているのです。

—シャンソンの劇中歌などにヌーヴェル・ヴァーグの香りを感じる。監督自身、ヌーヴェル・ヴァーグへの思いはあるのか。

もちろん知識としては知っていますが、影響の中心ではありません。若い頃に影響を受けたのはモーリス・ピアラやクロード・ソーテ。彼らはヌーヴェル・ヴァーグとは離れたマージナルな存在で、どちらもグループやファミリーなどといったヒューマニスト的なテーマを扱っています。ジャン・ルノワールも俳優に自由を与えるという意味で非常に尊敬しています。彼の映画では各登場人物が非常によく観察されていると感じます。

ー先ほどモーリス・ピアラの名前が出たが、この映画のプロデューサーはシルヴィ・ピアラ(モーリス・ピアラの配偶者)である。彼女との仕事はどうだったか。

すごく上手くいきました。若い頃にモーリス・ピアラの撮影現場を手伝ったこともあり、彼女のことはその頃から知っています。ですから、彼女との制作作業には、彼女から守られているような安心感もありました。俳優としても参加しないか、と私に提案したのも彼女です。今回、俳優と監督という2つの役割を務めたのは強烈な体験でもあり、彼女が勧めてくれて本当に良かったと思っています。

4媒体合同で行ったインタビューは短い時間ながらも、精緻に言葉を選ぶようにして話すカーン監督の姿が印象的であった。ごく個人的なことを語っていながらも、多くの観客が心を寄せるほど普遍的であり得るということが、この映画にとって一番の理想形である、とカーン監督は語った。

 

インタビューの様子は一部YouTube上で公開しています。
https://youtu.be/rYeCO_6-NeE

セドリック・カーン

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1966年6月17日生まれ。フランス出身の映画監督・脚本家・俳優。

パリ高等映画学院で学び、92年に映画監督デビュー。長編初監督作である『鉄道バー』をヴェネチア国際映画祭に出品、2作目の『幸せ過ぎて』でジャン・ヴィゴ賞およびカンヌ国際映画祭ジュネス賞を受賞。また『ロベルト・スッコ』が第54回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に、『The Prayer』は第69回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に正式出品されている。

 

『ハッピー・バースデー 家族のいる時間』

監督:セドリック・カーン 

出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、エマニュエル・ベルコ、ヴァンサン・マケーニュ、セドリック・カーン

2019年|フランス|101分|5.1ch|ビスタ|カラー 

原題:Fête de famille 英題:HAPPY BIRTHDAY

提供:東京テアトル/東北新社 配給:彩プロ/東京テアトル/STAR CHANNEL MOVIES

Copyright ©Les Films du Worso 

公式サイト:http://happy-birthday-movie.com

 

川窪亜都
2000年生まれ。都内の大学で哲学を勉強しています。散歩が好きです。