ボサノヴァの伝説的なミュージシャン、ジョアン・ジルベルト。長い年月公の場から姿を消していた彼にどうしても会いたいと、ドイツ人ジャーナリストのマーク・フィッシャーはブラジルを訪れたが、その願いを叶えることはできなかった。旅の一部始終を本に書いたフィッシャーは、それが出版される一週間前に自らこの世を去ってしまう。
ブラジル音楽を敬愛する映画監督のジョルジュ・ガショは、フィッシャーの著書”Ho-ba-la-lá: À Procura de João Gilberto”に強く導かれ、自身もジョアン・ジルベルトを探しにブラジルを旅することとなる。
『ジョアン・ジルベルトを探して』は、ボサノヴァ音楽の文化についてのドキュメンタリー映画でありながら、その構造はどこかミステリーのように、過去のいくつかの道のりが複雑に重なって物語られている。本作の公開を前に来日したジョルジュ・ガショ監督にインタビューを行い、作品の経緯などについて尋ねた。


ー映画は監督がフィッシャーの本を手に佇んでいるところから始まります。監督がマーク・フィッシャーの著書を手に取ってから、この映画を作るまでの詳しい経緯を教えて頂けますか。

概観的に言うと、映画の制作期間は4年かかっています。最初に本を読んで、そこから調査が始まっていきました。取材活動をして、それから台本を作って、勿論ファイナンスの面もやらなくてはいけませんから、出資をしてくれるテレビ局や団体を探しました。それからコアプロデューサーをフランスとドイツで一人ずつ見つけ、計画を立てて実際の撮影に入っていったというようなプロセスでした。

ー別のインタビューでは、最初フィクションの映画として脚本を作っていたと仰っていましたが、監督自身が旅をして、それがドキュメンタリー映画になるという内容は、どのように決まっていきましたか。

この映画自体は、最初からドキュメンタリーの枠組みで作ろうとは考えていたんですけれども、ただマーク・フィッシャーの本を下敷きにしました。その本というのが、フィッシャー自身がシャーロック・ホームズとして登場するし、自分のことを私、”I”、という形で言うのではなくて、シャーロックがどうしたとか、助手のワトソンがどうしたとか、そういう風に自分に役割を与えているんですね。そういった意味では、彼の本自体はフィクションとも言えると思います。
私自身は、彼のそういったフィクションの傾向を持った本を使いましたから、私の映画もその傾向を持つというのは当然かもしれません。
勿論、私は自分の映画の中では自分のストーリーを作っていこうとは思っていたんですけれども、フィッシャーの本を下敷きにすることで、ドキュメンタリーでありながらフィクション的な傾向をもつ作品になったと思います。

ー劇中でもフィッシャーの本に心を奪われたと仰っていましたが、そういったフィクショナルな部分に惹かれたのでしょうか。

フィッシャーの本自体が、それを台本にして映画を作るには最適なものでした。彼の書き方というのが、とても深い文章を使うスタイルで、しかも彼は描写するのがとても上手かった。そういう点では、台本にするにはパーフェクトな本だったと思います。そういった魅力を感じていました。
私個人のモチベーションとしては、フィッシャーはジョアン・ジルベルトを探して、結局会うことができず、苦しんで最終的には自殺してしまうわけですよね。彼の自殺に関しては私もショックでした。彼の両親の所に行って、彼についての映画を作っていいかどうか尋ねたのですが、そういったプロセスを経てこの映画は作られています。

ー劇中、ブラジルを旅するなかで、自分がジョアン・ジルベルトを探しているのか、フィッシャーを追っているのか、もしかしたら自分自身を探求しているのかわからなくなってきた、とも仰っていました。監督ご自身は、撮影しているなかでその旅の目的を明確に感じていらっしゃいましたか。

そのように感じた背景としては、ジョアン・ジルベルトの周りにいる人がまるで私を手玉に取るように、ゲームをしているような印象がありました。例えば、彼に会いたいんだけど、とジョアンの友人に頼むと、「じゃあ彼に電話して、会いたがってる人がいるって伝えてあげるよ」と言ってくれるんですが、絶対にそんなことは実現しないんですね。なのでだんだん、これはゲームなのか、私が騙されているのか手玉に取られているのか、その上探しているもの自体もジョアン・ジルベルトなのかマーク・フィッシャーなのか、それとも自分自身なのかもわからなくなってくるという事実はありました。結局ジョアン・ジルベルトは見つからない訳ですし、マーク・フィッシャーも自殺してしまったので、彼らの道すじを辿るといっても、本当に探すことに意味があるのかどうか…という、探すことの意味を探すようなことになってしまっていたんです。すごく複雑だったんですね。


ー私個人の感想なのですが、ジョアン・ジルベルトについて、劇中で「彼は人のかたちをした憧れで、憧れというのは掴むことができない」と語られていたのがとても印象に残っています。「憧れ」について監督ご自身はどのようにお考えでしょうか。

「憧れ」ということの内容としては、求めても得られないもの、到達することができないものや見つけることができないものというのが憧れの背景にあると思います。それを自分の映画の中で表現したかったんです。

ー監督の中で、ジョアン・ジルベルトのボサノヴァの音楽と、到達することのできない「憧れ」とが、何か繋がりがあるのでしょうか。

ジョアンは憧れを求めて、本当に妥協のない生活をしていたんですね。例えば彼は、一日の半分でインタビューを受けて、残りの半分の時間で音楽をやる、というような器用なことはできなくて、本当に妥協なく、音楽という芸術だけに、あるいはボサノヴァだけに人生を捧げたいと思っていたんです。そういった意味では彼は憧れのために生きていたでしょうし、それを実現するために全く妥協のない生活を送っていたと思います。

ー映画の中で「ボサノヴァは彼の呪いだ」と言われていたのを思い出しました。

ボサノヴァのミュージシャンの辿った人生というのは、本当に呪いがかかったといっても良いようなケースもあったんですね。多くの歌手はアルコールなどで早くにこの世を去っていますーー例えばナラ・レオンという歌手もそうですーですから、ボサノヴァというのは本当に気をつけなくてはいけない呪いだというのは事実だと思います。ボサノヴァとは内面を表現するものなので、それに耐えられる歌手もいるけれど、耐えられない歌手もいるのではないでしょうか。

 ジョアン・ジルベルトは今年の7月6日に亡くなったことが報じられたが、映画を観ていても、彼は既に探しても探しても会えない、この世に生きている人というよりはひとつの伝説のような概念的な存在に感じられた。一方で、彼の名前と音楽は広く知られ続けている。それらにマーク・フィッシャーが焦がれて追い求めたように、監督の言っていた「到達することのできない憧れ」というのは、私たちがアーティストによって残された作品を受け取る時にも存在しているように思えてしまう。
フィッシャーは亡くなってしまったが、ガショ監督が彼の本を手に取ったことでこの映画が作られたように、彼も文章や本を残すことで他の誰かの憧れになったのではないだろうか。
憧れとは決して掴むことのできないものなのかもしれないが、もしそれが誰かが残した音楽や本にも宿り、別の誰かが受けとるときに生まれていくものなのだとしたら、『ジョアン・ジルベルトを探して』は、それらが広がっていくことの美しさを感じることのできる映画のように思う。

『ジョアン・ジルベルトを探して』
監督・脚本:ジョルジュ・ガショ
出演:ミウシャ、ジョアン・ドナート、ホベルト・メネスカル、マルコス・ヴァーリ
2018年/スイス=ドイツ=フランス/ドイツ語・ポルトガル語・フランス語・英語/111分/カラー/ビスタ/5.1ch
原題:Where Are You, João Gilberto?
字幕翻訳:大西公子 字幕監修:中原仁
配給:ミモザフィルムズ 
©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018  

公式サイト

8月24日(土)より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開

予告編

吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。大学は卒業したけれど英語と映画は勉強中。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感じが好きです。